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大久喜鉱山

  • 建物・施設

大洲藩が拓いた銅の山 ― 大久喜鉱山、開発の記録

愛媛県喜多郡五十崎町(現・内子町)の大久喜地区では、江戸時代の天保年間(1830〜1844年)または1854年、大洲藩主・加藤家の主導により鉱山開発が始まりました。この地の地質は、四国山地の付加体を構成する「御荷鉾緑色岩類」と呼ばれる古い海洋性の地層に特徴づけられ、海底火山活動によって銅・鉄・硫黄を主成分とする「キースラーガー鉱床」が形成されています。産出した鉱石は銅品位7〜8パーセント、金4〜6グラム毎トン、銀50〜60グラム毎トンという、金銀を豊富に含む良質なものでした。


昭和の機械化と、山あいに築かれた鉱山集落

1934年(昭和9年)、昭和鉱業株式会社が経営に乗り出し、それまで人力に頼っていた採掘作業の機械化が進められました。戦後の1948年(昭和23年)には選鉱効率を高める浮遊選鉱(浮選)工場が新設され、その後複数回の増設を経て処理能力が拡大しています。最盛期にあたる1956年(昭和31年)頃には、従業員とその家族が暮らす社宅が200戸規模で立ち並び、山あいに独自の鉱山集落が形成されました。


操業コストの増加と、90万トンの記録

1960年代以降、採掘・運搬コストの増加や安価な海外産鉱石との競争、資源の枯渇などにより、大久喜鉱山は1971年(昭和46年)3月に閉山しました。1934年(昭和9年)の近代化操業開始から閉山までの間に採掘された鉱石の総量は約90万トンにのぼり、そこに含まれていた金属銅の量は約2万7000トンと算定されています。


キースラーガー鉱床が伝える、地質学的な記憶

大久喜鉱山の跡地は、御荷鉾緑色岩類とキースラーガー鉱床という地質学的に貴重な特徴を持つことから、現在も学術書や地学事典にそのデータが厳格に記録されています。また、かつての活気や歴史は地域の確かな記憶として、今も町誌や人々の手によって大切に語り継がれ続けています。

(2026年9月執筆)

山肌に埋もれた坑口が、当時の姿をとどめています。

 

川と緑に囲まれた谷間に、鉱山の記憶が眠っています。

PHOTO:写真AC

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