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第一海堡

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江戸湾防備の悲願と近代海上要塞の誕生

東京湾の入り口、富津岬の沖合に浮かぶ第一海堡は、日本の首都防衛を象徴する巨大な海上要塞です。その起源は古く、文化7年(1810年)に松平定信が砲台を築いたことに始まり、天保10年(1839年)には江川太郎左衛門が海中台場の建設を構想しました。明治政府はこの悲願を引き継ぎ、明治14年(1881年)8月に建設を開始。水深5メートルの海底に7万立方メートルを超える石材と、12万立方メートルもの砂を投入する国家プロジェクトとなりました。当時の金額で約35億円相当の巨費が投じられ、9年の歳月をかけて明治23年(1890年)12月に竣工。最新鋭の28センチ榴弾砲などが配備され、不沈の要塞としてその威容を誇ったのです。

 

技師・西田明則の献身と32万人の汗

この難工事を支えたのは、延べ31万6,776人という膨大な人々の労苦でした。建設の指揮を執った陸軍技師の西田明則は、毎朝未明に自宅を出て深夜に帰宅するという過酷な日々を送り、自ら重い潜水服に身を包んで海底の基礎を点検したと伝えられています。明治32年(1899年)に要塞地帯法が公布されると、この地は一般人の立ち入りや写真撮影が厳しく禁じられる「禁断の聖域」となりました。しかし、その厳格な管理があったからこそ、富津岬周辺の貴重な海浜植物群落は人為的な破壊を免れ、現在も豊かな自然環境が守り伝えられているという、歴史の皮肉とも言える心温まる側面も残されています。

 

荒波に洗われる遺構と現在の姿

大正12年(1923年)の関東大震災では、近隣の海堡が壊滅する中で第一海堡は致命的な被害を免れ、戦後までその機能を維持しました。しかし、昭和20年(1945年)の終戦による武装解除後は、有効な活用策がないまま財務省の管理下に置かれています。竣工から130年以上が経過した現在、特に南側の護岸崩落が深刻化しており、平成6年(1994年)から平成29年(2017年)の間にも波浪による破壊が加速しました。かつての兵舎や砲台跡が剥き出しになり、海中へ崩れ落ちるなど、歴史的遺構は今、静かに、そして確実にその姿を消そうとしています。

 

孤島に眠る記憶への敬意

現在は不発弾の危険や崩落の恐れがあるため、原則として上陸は禁止されており、私たちは船上からその緑に覆われた姿を遠望することしかできません。第一海堡は、日本の近代化を命懸けで支えた先人たちの誇りと技術の結晶であり、名もなき多くの人々の汗が染み込んだ場所です。学術的な調査や文化財としての保護が待たれる中、波風にさらされながらも孤独に立ち続けるその姿は、私たちに平和の尊さと歴史の重みを静かに語りかけています。かつて海上に夢を託した人々の情熱を、私たちは決して忘れてはなりません。

 

(2026年2月執筆)

 

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