細倉鉱山
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千年の歴史を刻んだ鉛山、細倉鉱山の起源
細倉鉱山(宮城県栗原市)は、大同年間(806年〜810年)または貞観年間(859年〜877年)に発見されたとの伝承を持つ、古い歴史を誇る鉱山です。確かな記録としては、天正年間(1573年〜1592年)に本格的な採掘が始まったことが、安永7年(1778年)に仙台藩へ提出された文書に記されています。当初は銀山として稼行しましたが、延宝年間(1673年〜1681年)以降は鉛の採掘が本格化し、元禄年間(1688年〜1704年)には長崎貿易の精錬に不可欠な鉛の需要増加を背景に、各地から山師が集まる一大拠点へと発展しました。幕末の文久3年(1863年)には、深刻な小銭不足に対処するため、細倉産の鉛を用いた大型の鉛貨「細倉当百」が鉱山内限定で鋳造され、裏面には奥州藤原氏・藤原秀衡の花押を模した「秀」の文字が刻まれています。明治期に入ると近代化が進み、1934年(昭和9年)には三菱鉱業に買収され、神岡鉱山に次ぐ日本第二位の鉛・亜鉛鉱山へと成長しました。
不夜城と呼ばれた鉱山町、そして影の記録
1957年(昭和32年)、細倉鉱山を擁する鶯沢町の人口は史上最高の13,500人に達し、社宅街「佐野住宅」や複数の映画館、総合病院が建ち並び、昼夜交代で働く人々によって山あいの町は不夜城のごとく賑わいました。この輸送を支えたのが、東北本線と接続する「くりはら田園鉄道(旧・栗原電鉄)」で、1950年(昭和25年)の全線電化を経て、1955年(昭和30年)には国鉄の貨物列車が直接乗り入れる広軌化が行われました。1970年(昭和45年)には年間の粗鉱産出量が80万トンの大台を突破し、鉱山は最盛期を迎えます。しかしその一方で、1969年(昭和44年)の調査により水田や川底から高濃度のカドミウム汚染が発覚し、鉱害対策として取水場の移設や住民への補償が行われました。
円高の波に沈んだ坑道、リサイクル産業への転身
1985年(昭和60年)のプラザ合意による急激な円高を受け、海外産の安価な鉛・亜鉛地金に太刀打ちできなくなり、1987年(昭和62年)2月、地中に鉱石を残したまま細倉鉱山は閉山しました。閉山後、製錬部門は「細倉金属鉱業」として独立し、自動車の廃バッテリーから高品質な鉛を回収するリサイクル事業へと転換しています。現在も総延長約500キロメートルにおよぶ坑道から湧き出る重金属を含んだ酸性水を、24時間体制で中和・浄化処理する環境保全事業が続けられています。
千年の記憶を伝える観光坑道
2007年(平成19年)、経済産業省により「近代化産業遺産群33」の一つとして認定されました。1990年(平成2年)には地下坑道の一部が観光坑道「細倉マインパーク」として一般公開され、全長777メートルの坑道で当時の採掘の様子を伝えています。江戸期の鉛供給地から近代日本有数の鉱山、そして環境リサイクル産業へと姿を変えたこの地の歩みは、現在も坑道と施設群を通じて記録されています。
(2026年8月執筆)

現在は観光拠点として活躍しています。
PHOTO:PIXTA







