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向山炭鉱

  • 建物・施設

大正の扁額に刻まれた誇り ― 向山炭鉱、開坑の物語

佐賀県伊万里市山代町一帯は、古くから石炭を含む北松炭田の一部として知られていましたが、この土地の炭層は薄く硬い岩に挟まれており、採掘には多くの困難が伴いました。明治44年(1911年)まで地元の金桝宮次郎氏が「西分炭鉱」として操業を続けていましたが、減産と掘削の難航により経営は限界を迎えます。鉱区を引き継いだのは大阪の実業家、村井吉兵衛氏でした。1912年(大正元年)11月、新たな資本のもとで鉱山は「向山炭鉱」として正式に開坑し、その本坑口には「大正元年十一月開坑」の文字が刻まれた扁額が据えられました。その後1937年(昭和12年)には軍需企業・川南工業株式会社の川南豊作氏が炭鉱を買収し、隣接する浦ノ崎造船所と一体となって、国家の増産体制を支える軍需鉱山へと姿を変えていきました。


炭鉱夫たちの暮らしと、閉山がもたらした苦難

戦時中は昼夜を問わずダイナマイトの爆破音と選炭機の音が響き渡り、掘り出されたボタは目の前の海へと投棄されました。今も海岸線にそそり立つコンクリートの断崖は、当時の増産体制の痕跡を伝えています。1951年(昭和26年)に川南工業が破産すると、翌年には樋口鉱業が採掘権を取得し「新向山炭坑」として再興を図りましたが、1963年(昭和38年)7月6日、ついに閉山を迎えます。炭鉱で生計を立てていた人々は一夜にして収入源を失い、生活は困窮を極めました。同年7月25日付の『佐賀新聞』は、生活のために地元のパチンコ店で働かざるを得なかった少女たちの姿を「貧困が生んだ悲劇」として報じています。


石炭のまちが刻んだ、行政と労働者の記録

閉山後、伊万里市では新たに生活保護を受給する世帯の70%から80%を炭鉱離職者が占め、市は佐賀県内でもエネルギー転換の影響が最も大きい地域となりました。1965年(昭和40年)2月には、生活保護費の収入認定をめぐって職員が暴行を受ける事件や、全日自労佐賀県支部による佐賀県庁前での座り込み闘争が起こり、当時の苦しい世相を物語っています。一方、閉山から11年が経った1974年(昭和49年)4月発行の『広報いまり』には、向山炭鉱の固定資産税・鉱産税の延滞金収入として1,235万円が伊万里市の歳入に計上されたと記されており、この財源は道路改修の補償費や土地開発基金の買戻費などに充てられ、炭鉱の遺産が形を変えて市の近代化を後押ししました。同じ号には、新たな福祉の拠点となる大川老人憩の家や大坪保育園の完成も報じられており、炭鉱から近代都市へと歩みを進める当時の伊万里の姿がうかがえます。


海に佇む遺構が語り継ぐもの

半世紀以上の歳月が流れた今も、伊万里湾には向山炭鉱の遺構が静かに残っています。しかし2024年(令和6年)には、沖合に立っていた鉄製のトラス構造物が経年劣化により倒壊し、産業遺産は少しずつ自然へと還りつつあります。石炭に支えられた時代からインフラの近代化へと歩みを進めた伊万里市の姿とともに、この地でかつて汗を流した人々への敬意を込めて、その記憶を静かに伝えていくことが願われます。

(2026年8月執筆)

在りし日の記憶を静かに伝承します。

PHOTO:写真AC

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