生月砲台跡
- 建物・施設
ミンチマの丘に据えられた重砲 ― 生月砲台、建設の記録
1937年(昭和12年)7月6日、生月島北部・御崎地区の丘「ミンチマ」で生月砲台の工事が始まり、1938年(昭和13年)12月12日に竣工しました。主砲として据えられたのは陸軍の最新鋭野戦重砲「九六式十五糎加農砲」2門で、本来は陸上野戦において敵の砲兵陣地を制圧するために設計された機動性の高い火砲でした。砲の南東側にはコンクリート製の頑丈な観測所が建設され、射撃照準や着弾位置の計算にあたりました。1945年(昭和20年)、米軍による空襲の脅威が高まると、ミンチマの丘の北側斜面に厚いコンクリートの防壁を備えた洞窟式砲座「穹窖」が2カ所建設され、大砲はここに収容されましたが、射撃可能な角度は前方約45度に制限されました。同年8月15日の終戦まで、この主砲が実戦で火を噴くことは一度もなく、翌1946年(昭和21年)、上陸した米軍占領部隊により爆破処分されました。
弾薬庫と誤解されていた、大バエの探照灯格納庫
生月島最北端の「タカリの丘」(現在の大バエ灯台周辺)には、陸軍(壱岐要塞)の手によって洞窟式砲座が2カ所掘られ、海軍から提供された、大正時代に建造された戦艦の副砲や巡洋艦の主砲を再利用した、仰角が小さい「50口径三年式14センチ平射砲」2門が配備されました。大バエ灯台のコンクリート製の土台は、長らく「旧陸軍の弾薬庫」として紹介されてきましたが、一次史料『生月砲台建設要領書』に見つかった「電燈所ハ砲台東北側高地ニ設ク」という記述により、実際には探照灯を格納する「電燈所」であったことが実証されました。格納庫南側の開口部から灯台西側にかけては、車輪付きの探照灯を運び出すためのコンクリート敷き通路が今も残っています。
本土決戦に備えた、北ノ平の坑道陣地
1945年(昭和20年)6月以降、壱岐要塞司令部の防衛方針は、海上の艦船を狙う「点の防衛」から、上陸する敵歩兵との地上戦を想定した「面の防衛」へと転換しました。御崎地区には約300人の要塞歩兵中隊が配備され、地元住民も動員して陣地構築が進められます。標高約100メートルの「字北ノ平」の丘陵では、南北方向に掘られた4本の坑道が確認され、うち2本は丘を完全に貫通していました。これらの坑道は、兵員が爆撃から身を隠す待避壕や、敵の進撃を阻む坑道陣地として計画され、ペリリュー島や硫黄島、沖縄戦で用いられた「坑道による持久戦」を想定したものでした。断崖に囲まれた御崎地区で唯一の陸続きである南側の谷にこの陣地を敷くことで、上陸した敵部隊を狭い通路に誘い込んで迎え撃つ計画が立てられていました。
戦争の記憶を伝える、島の博物館
かつては公の歴史にほとんど現れなかったこれらの戦争遺構は、近年の市民や博物館による丹念な現地調査によってその実態が次々と明らかにされ、現在は平戸市生月町博物館「島の館」で、捕鯨の歴史やかくれキリシタンの信仰用具とともに、大切な歴史資料として保存・展示されています。
(2026年8月執筆)

かつてこの場所を軍人さんも歩いたはずです。

平和の尊さを伝える貴重な戦跡です。
PHOTO:写真AC







