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あいりん総合センター 取壊

  • 建物・施設

あいりん総合センターは、大阪市西成区のあいりん地区(旧称・釜ヶ崎)に位置し、日本の高度経済成長期から現在に至るまで、日雇い労働者や地域住民にとって重要な拠点として機能してきました。同地区は1950年代から1970年代にかけて、万国博覧会やニュータウン開発などで全国から若い労働者が集まる場所となり、労働者たちは建設現場や工場で日本の成長を支えました。

1966年、大阪市・大阪府・大阪府警が地域のイメージアップと治安対策を目的に「あいりん地区」と改称し、以降、この呼称が定着しました。あいりん総合センターは、労働者と手配師が直接交渉する「寄り場」、職業安定所や労働福祉センター、医療施設、市営住宅などが集まる複合施設として1970年にオープンしました。バブル経済期(1986~1991年)には仕事の求人が急増し、活気にあふれていましたが、バブル崩壊後は仕事が激減し、野宿者や高齢労働者の増加など、さまざまな社会問題が顕在化しました。1990年代後半以降は、行政やNPO、ボランティア団体が連携し、高齢労働者への生活支援や雇用創出など、地域の福祉向上に取り組んできました。近年は、あいりん地区が家賃や物価の安さ、社会支援の充実から生活弱者や年金生活者の受け皿となり、「サービスハブ」としての役割を強めています。一方で、あいりん総合センターの建物は老朽化と耐震性の問題から、2019年には労働施設部分の閉鎖が決まり、建て替えが進められてきました。

多くの人々の人生の詰まった施設ですが、既に「あいりん総合センター跡地等利活用にかかる基本構想(活用ビジョン)」が策定されており、隣接する市営住宅も含めて2027年3月末までの解体完了が予定されています。今後は、新たなセンターが町会や労働者支援団体も加わって計画され、労働施設を中心ににぎわいやサービスハブ機能の充実が図られる見通しです。

あいりん総合センターは、労働者にとって単なる就労の場ではなく、休息や交流、支援を受ける「よりどころ」であり、地域社会の象徴でした。その半世紀にわたる歩みは、日本の社会の変化や課題と深く結びついています。今後も、多くの人々の思い出とともに、新たな時代に向けてその精神が受け継がれていくことが望まれます。

(2025年5月執筆)

PHOTO:写真AC

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