旧海軍出水航空基地
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真珠湾へ、そして沖縄へ ― 旧海軍出水航空基地、誕生の記録
1937年(昭和12年)、鹿児島県出水市一帯で飛行場建設のための土地買収が始まり、1940年(昭和15年)に出水飛行場が竣工しました。敷地は後に約300ヘクタールにまで拡大します。1941年(昭和16年)4月1日、佐世保海軍航空隊から派遣された「出水分遣隊」が置かれると、同年8月には真珠湾攻撃に向けた猛訓練が行われ、12月8日、出水で訓練を積んだ艦上攻撃機隊は空母「蒼龍」「飛龍」に収容されて出撃しました。1943年(昭和18年)4月1日には練習航空隊として出水海軍航空隊が開隊し、1944年(昭和19年)8月15日には整備教育を担う第二出水海軍航空隊が高尾野町下水流に新設されています。同年10月、実戦部隊「七六三航空隊(銀河部隊)」が配置され、1945年(昭和20年)2月には第五航空艦隊に編入、攻撃四〇五・四〇六飛行隊が展開しました。
激化する空襲と、特攻の日々
1945年(昭和20年)3月18日、米軍機による初空襲が基地を襲い、4月下旬までに計8回の波状攻撃を受けました。この日から沖縄への特攻攻撃が本格化し、出水から出撃、あるいは中継したのち南海に散った隊員は200名以上にのぼります。同年4月21日には桂島上空で古河中尉(当時25歳)の機が米軍編隊と交戦しました。海軍予備学生の日々を描いた阿川弘之の小説『雲の墓標』は、出水海軍航空隊の空気感を描いた作品として知られ、その一節「雲こそわが墓標 落暉よ碑銘を飾れ」は現在、特攻碑の正面に刻まれています。空襲の激化にともない、1944年には司令部を守るコンクリート製の地下戦闘指揮所が構築されました。
発掘調査が明らかにした、掩体壕の姿
2014年(平成26年)、出水市教育委員会は現存する航空機用の掩体壕を対象に、本格的なトレンチ掘削と構造実測による発掘調査を実施しました。千間山地区には第二海軍航空隊の3基の掩体壕が、県道373号沿いには見学しやすい2基が現存しており、調査報告書によれば1号掩体壕は最大高5.2メートル、最大幅12.8メートルという規模を持ちます。地下戦闘指揮所は当初4カ所あった出入口のうち2カ所が爆撃で失われ、残る2カ所が現存しています。
桜咲く公園と、海から蘇る紫電改
戦後、基地跡地の一角には特攻碑が建てられ、出水市特攻碑顕彰会による慰霊祭が続けられています。2026年(令和8年)4月16日には第67回慰霊祭が営まれ、遺族や市民約150名が南の空へ黙祷を捧げました。出水市は2010年度(平成22年度)以降、顕彰会に毎年8万4,000円の運営補助金を交付しています。かつて基地の中枢であった一帯は、現在「特攻碑公園」として桜の名所になっています。2025年には、出水基地の防衛にも関わったとされる局地戦闘機「紫電改」の詳細な海底調査と引き揚げ作業が阿久根市沖で行われ、米ノ津港で塩抜き保存が開始されました。NPO法人「北薩の戦争遺産を後世に遺す会」は、2029年の着工を目指し、この機体を展示するミュージアム構想を進めています。
(2026年8月執筆)

悲しい歴史を今に伝える貴重な戦争史跡です。
PHOTO:PIXTA







