石切山脈
- 建物・施設
約6000万年前に生まれた、白い岩の山
茨城県笠間市の稲田から福原にかけて、東西約8km、南北約6kmにわたる巨大な花崗岩体が横たわっています。通称「石切山脈」と呼ばれるこの一帯の石は、約6000万年前、地下深くに入り込んだマグマが長い時間をかけてゆっくりと冷え固まって生まれたものです。地元での採石の記録は古く、1752年(宝暦2年)に笠間市大町の三所神社へ建てられた石鳥居までさかのぼります。転機となったのは鉄道でした。1887年(明治20年)に始まった水戸鉄道の敷設工事に大量の稲田石が供給され、同じころ地元の有志が出資し合って笠間石材会社が設立されます。1889年(明治22年)の開通を経て、1896年(明治29年)には東京の石材問屋であった鍋島彦七郎氏が採掘権を譲り受け、採石場から沿線までおよそ2kmのトロッコ軌道を自費で整備しました。翌1897年(明治30年)には稲田駅が開業し、稲田石は全国へと運ばれる道を得たのです。
ノミの音で明け、ノミの音で暮れた町
軌道が通う以前、切り出された巨石は橇に乗せられ、男たちが牛馬とともに約5km離れた駅まで、ぬかるんだ山道を押し引きして運んでいました。重機のない丁場では、石工たちがノミとハンマーで楔を打ち込み、岩を割る乾いた打撃音が山あいに響いていたといいます。1904年(明治37年)には大貫亀吉氏が羽黒にも軌道を敷き、開業した駅前には角石や敷石がうずたかく積み上げられました。石は焼き物とも結ばれています。花崗岩が風化してできた粘土には長石や石英が豊かに含まれ、安永年間に久野半右衛門氏が始めた笠間焼の土台となりました。同じ大地から、石と器という二つの生業が育っていったのです。
国の中枢を築き、地質遺産となるまで
稲田石は日本の近代化を足元から支えました。1911年(明治44年)に架け替えられた日本橋、1912年(大正1年)に始まった東京市電の軌道敷石、1914年(大正3年)に完成した東京駅の腰壁や基礎に用いられ、1921年(大正10年)には臨時議院建築局が編んだ「本邦産建築石材」にその物性が公式に記録されます。戦後も1966年(昭和41年)に完成した最高裁判所庁舎の外壁など、国家的な建築に選ばれ続けました。近年は安価な輸入石材の増加により加工業者が減少していますが、稲田地区は加工技術の高さで供給を続けています。1995年(平成7年)には資料館「石の百年館」が開館し、2024年(令和6年)7月6日には筑波山塊の花崗岩の一部として、国際地質科学連合から東アジアで初めてヘリテージストーンに認定されました。
削られた白い壁が語り継ぐもの
緑の山並みに突如として現れる白い岩壁は、一世紀以上にわたって石を切り出し続けた人々の手の跡そのものです。JR稲田駅の前には、鍋島彦七郎氏の功績を伝える稲田石の頌徳碑が今も立っています。地下にはなお、この先50年から100年以上にわたって供給できるだけの石が眠っているといいます。東京駅の足元にも、最高裁判所の白い壁にも、この地から運ばれた石があります。国のかたちを築いてきた石と、それを切り出してきた人々への敬意とともに、この記憶が末永く受け継がれていくことが願われます。
(2026年9月執筆)
PHOTO:PIXTA
※当施設の見学は終了しているようです。(2026年9月)







