鹿島海軍航空隊基地跡
- 建物・施設
霞ヶ浦の水面が滑走路だった
茨城県稲敷郡美浦村大山。霞ヶ浦の南岸に面したこの場所に、1938年(昭和13年)12月、鹿島海軍航空隊が開隊しました。近隣の霞ヶ浦海軍航空隊から水上機部隊を切り離し、独立した専用の拠点として移したものです。敷地は東と南の二方向が湖岸に広く面しており、水上機が離着水するための水面がそのまま確保されていました。1941年(昭和16年)の開戦後、役割は搭乗員の教育だけにとどまらなくなります。1942年(昭和17年)12月1日、海軍大臣嶋田繁太郎氏の発令による編制改定が適用され、定数は練習機六隊から、練習機六隊と水上戦闘機半隊へと改められました。戦争後半には鹿島灘での対潜作戦が実戦任務として命じられ、搭乗員と整備要員を合わせて1000人を超える人員が常駐する基地となります。そして1945年(昭和20年)8月15日の終戦をもって、7年間の機能を終えて解隊しました。
コンクリートの庁舎と、石炭を焚く煙突
敷地の中心に建っていたのは鉄筋コンクリート造の本庁舎で、司令部機能と管理業務がここに集まっていました。基地の熱と動力を支えたのは、巨大な石炭ボイラーと高い煙突を備えた汽缶場です。送電が断たれる事態に備え、単独で電力を確保できる自力発電所も敷地内に置かれました。水際線には、水上機を湖面から引き上げ、また滑らせて進水させるための傾斜したスロープが設けられています。両翼下にフロートを備えた機体を扱うため、着水の衝撃を制御する操縦技術の習得が日々繰り返されました。練習生たちが寝起きしたのは、広い敷地に立ち並ぶ木造の兵舎群でした。静かな農村の水辺に、コンクリートの建築群と水上機の爆音が現れたのです。
病院から廃墟へ、廃墟から公園へ
終戦後、この敷地は東京医科歯科大学の霞ヶ浦分院となりました。頑丈な鉄筋コンクリートの本庁舎は診察室や管理棟として使われ、木造の兵舎は改修されて病室になります。地域の医療を長く担いましたが、建物の老朽化と患者数の減少により、1997年(平成9年)に閉院しました。その後の約16年、人の出入りが絶えた敷地は夏草とツタに覆われ、無人の廃墟として心霊スポットと噂される時期を過ごします。美浦村は2013年(平成25年)と2016年(平成28年)の二度に分けて国有地となっていた跡地を取得しました。当初の計画では建物をすべて解体し、レジャー施設として再開発する予定でしたが、地元住民や研究者から保存を求める声が上がり、2021年(令和3年)に方針が変更されます。
四度、姿を変えた敷地
保存が決まった本庁舎、汽缶場、自力発電所を残し、周辺一帯は大山湖畔公園として整備されました。2023年(令和5年)7月、長く非公開だった敷地の一般公開が始まります。現地の管理と活用は、笠間市の筑波海軍航空隊記念館で実績を持つプロジェクト茨城が受託しています。全国的にも、終戦当時の配置と主要建築がほぼそのまま残る例は少ないとされます。無機質なコンクリートの壁を深緑のツタが包み、屋上には草が茂っています。訓練基地、病院、廃墟、そして公園へと、四度その姿を変えたこの敷地を、一度訪ねてみてはいかがでしょうか。
(2026年9月執筆)

在りし日の歴史を今につたえる貴重な場所と言えそうです。
PHOTO:PIXTA
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