土肥金山
- 建物・施設
天正の鏨から、昭和の閉山まで
伊豆半島には湯ヶ島、縄地、修善寺、瓜生野といった金山が点在しますが、そのなかで最も古い歴史を持つのが土肥です。本格的な採掘が始まったのは天正から慶長にかけての時期でした。徳川家康の時代にあたる慶長年間に最盛期を迎え、佐渡と並び称される幕府の財源となります。武田信玄に仕えたのち家康の信任を得て伊豆代官頭となった大久保長安氏が、この時期の開発と管理体制の礎を築きました。しかし掘進技術の限界と坑内環境の悪化から、1625年(寛永2年)にいったん休山します。再び動き出すのは明治末期、近代的な採掘技術が導入されてからでした。太平洋戦争期の資源動員を経て操業は続きますが、1965年(昭和40年)に閉山します。この間に掘られた坑道は総延長100km、最深部は海面下180mに達し、産出量は金が約40トン、銀が約400トンと推定されています。
蒸し風呂になった坑道
初期の手掘り坑である龕附天正金鉱は、奥行き100mすべてが金槌と鏨だけで穿たれました。入口から約60mの最奥部には、空気の流れと溜まり水の排水を計算した空洞が設けられています。当時の送風技術ではこれ以上奥へ進めず、坑内の最奥に龕、すなわち神棚を祀る窪みを穿って山の神に祈りを捧げ、休山に至りました。近代に入り深く掘り進めると、今度は別の問題が起こります。岩盤の亀裂から高温の温泉水が湧き出し、坑内は蒸し風呂のような環境に変わりました。坑夫は地上からパイプで送られる冷水を浴びながら掘り進めます。暗闇のなかには、注がれる水の音、岩を穿つ金属音、湧き出す湯の音が重なっていました。地上では石臼で鉱石を砕く水挽きの音が集落に響いています。
湯が町を変えた
鉱脈は北西から南東へ走り、10条以上が平行して伸びていました。鉱石1トンあたり金10.9g、銀48.0gという品位で、銀が金の60倍という比率です。最深部にはなお富鉱帯が確認されていましたが、押し寄せる温泉水と採算性から閉山が決まりました。坑夫を苦しめたその湯は、閉山後に地元の温泉組合へ無償で供給されます。坑内から湧く豊富な湯量は土肥温泉の源泉となり、鉱山の町は温泉地へと姿を変えました。龕附天正金鉱は1971年(昭和46年)11月8日に、本坑も1984年(昭和59年)10月24日に、それぞれ伊豆市の史跡に指定されています。
石臼の残る庭先
かつて鉱石を砕いた石臼は、今も民家の庭先や石段に、摩擦の痕を残したまま置かれています。坑道の一部は見学できるよう整備され、地下の空気のなかを歩けるようになりました。龕附天正金鉱の壁には、天正の職人が振るった鏨の跡がそのまま残っています。掘る者を苦しめた湯は、今は宿の湯船を満たしています。金を掘るための穴が、湯と史跡というかたちで町に残り続けています。鏨の跡と湯けむりの両方が残る土肥へ、一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
(2026年9月執筆)
数百年前まで歴史を遡ることのできる貴重な場所と言えそうです。
PHOTO:PIXTA







