【明治】宇津ノ谷隧道
- 建物・施設
険しい峠道を越えて、初めてのトンネルへ
古来、駿河国から西へ向かう官道は駿河湾沿いの険しい「日本坂」が使われていましたが、平安時代中期を過ぎる頃から、より安全な宇津ノ谷峠を越える山道へと人々のルートが切り替わりました。江戸時代には東海道五十三次の重要な往来路として整備され、東西を行き交う旅人にとって避けて通れない交通の要衝となります。明治維新を経て東海道全体の交通改善が模索される中、明治7年(1874年)5月、宇津ノ谷峠を克服するため日本初の本格的な新道トンネル工事が着工されました。
くの字に曲がった、明治のトンネル
工事は東側の宇津ノ谷集落と西側の岡部宿の双方から同時に掘り進められましたが、当時の測量・掘削技術の限界から、中央のドッキング地点で高さと水平位置がずれ、トンネル中心部は「くの字形」に折れ曲がる独特な構造となりました。地盤の脆い宇津ノ谷側の坑口は硬質青石を積み上げる工法で、地盤の安定した岡部側は杉や楠の角材を組んだ「合掌枠」で支えられています。石屋川隧道に次いで日本国内で2番目に施工されたこのトンネルは、約2年の工事と約2万4,000円の費用を経て、明治9年(1876年)6月に開通。全長224メートルのこのトンネルは、明治4年制定の徴収制度のもと、日本初の有料道路トンネルとして運営されました。
火災を越えて、赤レンガのトンネルへ
開通から20年ほどが経った明治29年(1896年)、内部を照らしていたカンテラの火が藤枝側の木製合掌枠に引火し、支えを失った岩石や土砂が崩落してトンネルは通行不能となりました。数年の沈黙を経た明治36年(1903年)から復旧工事が始まり、日露戦争のさなかの明治37年(1904年)5月、現在の「明治のトンネル」として再び開通します。宇津ノ谷側の開削口の位置をずらして直線構造に改良し、内壁全体をレンガで覆う耐火性の高い設計となりました。側壁には「イギリス積み」の茶レンガ、アーチ部分には「長手積み」の赤レンガが用いられ、総工費は初代の3倍以上にあたる約8万円に達しています。完成した2代目は長さ203メートル、初代よりコンパクトながら強固な造りとなりました。
4世代のトンネルが今も残る、峠の記憶
昭和5年(1930年)、近くに広く平坦な「大正のトンネル」が開通すると、明治のトンネルは廃道となります。しかし昭和29年(1954年)の台風災害で大正のトンネルが通行不能になった際には、2ヶ月間にわたり緊急避難路として復活し、東西交通の遮断を防ぎました。平成8年(1996年)から平成9年(1997年)にかけては、発泡ウレタンやFRP製ロックボルトを用いた保存改修工事が行われ、平成9年5月7日、現役のトンネルとしては日本で初めて国の登録有形文化財に登録されています。今も宇津ノ谷峠には明治・大正・昭和・平成の4世代のトンネルがすべて現役のまま残り、時代を越えた道の記憶を伝え続けています。
(2026年8月執筆)

雰囲気抜群のトンネルは今なお多くの人々を魅了します。
PHOTO:PIXTA







