本宮町立四村川小学校 閉校
- 文化・教育施設
寺院の境内に産声を上げた百三十年の歴史
明治8年(1875年)、和歌山県旧本宮町の豊かな自然に抱かれた四村地区において、一つの学び舎が誕生しました。その始まりは「檜葉(ひば)」という地に佇む寺院「正覚庵」の境内であり、静寂な祈りの場が子供たちの教育の場へと姿を変えたのです。以来、本宮町立四村川小学校(旧称:四村小学校)は、清流・四村川のせせらぎを聞きながら、およそ130年という極めて長い歳月を地域と共に歩んできました。かつての町村合併を経た昭和の全盛期には、山深い「久保野」「皆地」「武住」の3箇所に分校を構えるほどの規模を誇り、谷間には500人近い児童たちの明るい歓声が絶え間なくこだましていたといいます。地域教育の拠点として、この地になくてはならない存在でした。
険しき山頂の分校に刻まれた通学の記憶
四村川小学校の歴史を語る上で欠かせないのが、特異な環境にあった「久保野分校」のエピソードです。この分校は民家が全くない山の頂上にポツンと建っており、麓の久保野集落と山向こうの平治川集落の両方から通える中間地点として、苦肉の策で場所が選ばれました。子供たちは毎日、自動車も通らぬ険しい山道を泥まみれになりながら登り、息を切らして教室へと向かったのです。昭和33年(1958年)の記録では、この不便な山頂の学び舎に63名もの児童が在籍していたというから驚きです。不自由な環境にあっても、当時の子供たちは互いに励まし合い、逞しく山を越えて学問に励んでいました。その足跡は、今も地域の語り草となっています。
時代の波と集落の変遷がもたらした終焉
昭和48年(1973年)、集落再編整備事業により平治川集落の全住民が移転し無人化したことで、翌昭和49年(1974年)に久保野分校は長い歴史に幕を下ろしました。本校もまた、平成元年(1989年)に旧中学校舎への移転を経て存続を図りましたが、過疎化の波は静かに押し寄せます。かつての賑わいは影を潜め、児童数が30名台まで減少したことで、近隣校との統合という大きな決断が下されました。そして平成18年(2006年)3月19日、全校児童38名が見守る中で閉校式が挙行されました。式典では伝統の「大瀬の太鼓踊り」が力強く披露され、最後は紀州名物の「餅ほり」で、長年親しんだ学び舎との別れを温かく、そして賑やかに惜しんだのです。
記憶の中に生き続ける学び舎への敬意
四村川小学校としての歴史は閉じられましたが、その教育の火は消えることはありませんでした。閉校直後の平成18年(2006年)4月2日に開校した新たな「本宮小学校」には、四村川の最後の校長を務めた先生が初代校長として着任し、子供たちの未来を繋いでいきました。現在、久保野の山頂には今もなお小さな木造校舎がひっそりと佇み、崩れゆく窓枠や錆びついた遊具が、かつての子供たちの笑い声を今に伝えています。過酷な通学路を乗り越えた先人たちの教えと、地域を愛した教育者たちの情熱は、形を変えても卒業生一人ひとりの心の中に、消えることのない故郷の誇りとして刻まれ続けていくことでしょう。
(2026年2月執筆)

かつては子供たちの賑やかな声が響いていたことでしょう。

卒業生・先生・地域住民など関係者様の心の中に、美しい思い出が永遠に記憶されますように。
PHOTO: 廃校5000 様







