琵琶湖疏水
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甦る古都の鼓動と青年技師の決断
明治2年(1869)の東京遷都により、京都の人口は約33万人から約22万人へと激減し、産業も急激に衰退していきました。この危機に立ち上がったのが、明治14年(1881)に京都府知事へ就任した北垣国道です。彼は琵琶湖の水を引く「琵琶湖疏水」という壮大な復興策を掲げ、弱冠21歳の青年技師、田邉朔郎を抜擢しました。外国人技師に頼らず日本人の手で未来を切り開くという強い意志のもと、緻密な測量と設計が進められ、明治18年(1885)8月に未曾有の大工事が幕を開けました。
情熱が灯した希望の光と市民の祈り
総工費125万2579円という府の年間予算の約2倍に及ぶ巨費は、市民への目的税などで賄われ、市民の大きな期待を背負って工事が進められました。日本初の竪坑方式を採用した第1トンネルの掘削は困難を極めましたが、人々は直営の煉瓦製造所で泥にまみれ、夜に技術者を養成し昼には実践するという不眠不休の日々を送りました。明治23年(1890)4月9日に竣工式が行われ、前日の竣工夜会では如意岳に大文字が点火され、船溜南側には祇園祭の山鉾が並ぶなど、盆と正月が一度に来たような熱狂が街を包み込みました。
文明開化を運ぶ水路と近代化への変遷
疏水が生んだ電力は京都を劇的に変え、明治24年(1891)には蹴上で日本初の事業用水力発電が開始。高低差を克服する「蹴上インクライン」も同年に運転を始め、建設当時世界最長であった傾斜鉄道で船が斜面を昇降する光景が生まれました。その後、明治45年(1912)3月には第2疏水が完成し、同年4月に蹴上浄水場で日本初の急速ろ過方式による近代水道が始動します。しかし、時代の流れとともに舟運は衰退し、昭和23年(1948)にインクラインは運行を停止。かつての鉄路は現在、静かな桜の名所へと姿を変えています。
百年先の夢を繋ぐ命のせせらぎ
先人たちがねじりまんぽ東口の扁額に小さく落款として残した「楽百年之夢(百年の夢を楽しむ)」という願いは、今も色褪せることなく息づいています。南禅寺の境内に溶け込む水路閣や、思索の場となった哲学の道は、市民の誇りとして大切に守られてきました。平成11年(1999)12月には新たな連絡トンネルも完成し、将来にわたって安定した水道水を供給する体制が整えられました。京都の再興に命を懸けた人々の敬意を胸に、この「命の水」は次の100年、その先へと豊かな未来を運び続けていくことでしょう。
(2026年2月執筆)

地域に潤いを与えてくれた琵琶湖疏水は現在も地域に大切な水を供給しています。

琵琶湖疏水記念館です。
PHOTO:PIXTA







