【舞鶴引揚記念公園】 平引揚桟橋跡
- 建物・施設
13年間、迎え続けた港
舞鶴港は1901年(明治34年)に日本海側で唯一の海軍鎮守府が置かれて以来、軍事拠点として発展してきた港です。内陸へ複雑に入り組んだリアス式の湾は波が穏やかで、大陸からの航路を受けるのに適していました。1945年(昭和20年)、舞鶴は政府が指定した全国18か所の引揚港のひとつとなります。同年10月7日、釜山から約2,100人を乗せた第一船「雲仙丸」が入港しました。以後、他の港が役割を終えたあとも舞鶴だけが機能を保ち続け、1958年(昭和33年)9月7日に樺太ホルムスクからの「白山丸」が帰着するまで13年に及びます。この間に入港した引揚船は延べ346隻、迎えた帰還者は66万4,531人、遺骨は1万6,269柱にのぼりました。当初の上陸地は西舞鶴の第二埠頭などでしたが、旧ソ連からの集団引き揚げが本格化した1947年(昭和22年)4月以降、拠点は東舞鶴の平地区へ移ります。ここにあったのが、1944年(昭和19年)に旧海軍平海兵団の施設として築かれた、幅約4m、長さ約93mの木造桟橋でした。
ランチで渡った最後の1キロ
平湾の奥は水深が浅く、大型の引揚船は接岸できませんでした。本船は大丹生沖の検疫停泊地に投錨し、帰還者は約1km沖から小型艇に乗り換えて桟橋へ向かいます。着岸した艇から手を取り合って降りると、桟橋脇のスピーカーからは「ふるさと」や「故郷の空」が流れていました。陸揚げ口には「引揚歓迎」と書かれた木製のアーチが掲げられ、その先の旧兵舎を使った厚生省舞鶴地方引揚援護局で、検疫と消毒、手荷物検査、引揚證明書の発給を受けます。地元の田端ハナ氏は第一船から最終船まで、船が着くたびに港へ通い、温かいお茶やふかしたジャガイモを配り続けました。東京から幾度も足を運んだ端野いせ氏は、満洲へ出征したまま消息を絶った息子を待ち、1954年(昭和29年)に発表された「岸壁の母」のモデルとなります。この桟橋を歩いた人は約45万2,000人、舞鶴で受け入れた総数の約7割にあたります。
消えた桟橋、復元された15m
北桟橋は潮風と海水で腐朽が進み、1952年(昭和27年)以降の業務は南側の桟橋へ移されました。引き揚げが終わると木造の構造物は急速に朽ちていきます。1968年(昭和43年)に援護局の旧施設群が解体・撤去され、跡地が合板工場などを誘致した平工業団地へ再開発される過程で、旧桟橋も波間に消えました。2年後の1970年(昭和45年)、舞鶴市は跡地を見下ろす約6.2ヘクタールの丘陵地を買い取り、舞鶴引揚記念公園を開設します。園内には再会する家族を象った「平和の群像」や「岸壁の母」の歌碑が置かれ、1988年(昭和63年)4月には全国からの募金を受けて舞鶴引揚記念館が開館しました。そして1994年(平成6年)5月27日、「引揚を記念する舞鶴・全国友の会」を中心に、長さ15m、幅4mの木造桟橋が平湾の海上に復元されます。式典には全国から約800人が集まりました。
鐘のある桟橋
復元された桟橋の傍らには、引揚船の入港を告げた時鐘をかたどった「語り部の鐘」が据えられ、訪れた人が自由に打ち鳴らせるようになっています。記念館が収蔵する約1万6,000点の資料のうち、白樺の皮に和歌を刻んだ日誌などの570点は、2015年(平成27年)10月10日に「舞鶴への生還 1945-1956」としてユネスコの世界の記憶に登録されました。2018年(平成30年)には、第一船が入港した10月7日を「舞鶴引き揚げの日」とする条例が定められています。館内では中学生から大学生までの学生語り部が案内に立ちます。かつて93mの桟橋が伸びていた平湾に、今は15mの木橋が海へ向かって架かっています。
(2026年9月執筆)
PHOTO:写真AC
シベリアの強制収容所に抑留された日本人とその家族の壮絶な半生を描く映画です。
当地もその舞台になっています。是非一度ご覧になってはいかがでしょうか。
VIDEO : Final Access ファイナルアクセス







