南禅寺水路閣
- 建物・施設
遷都のあとの京都が、湖から水を引く
琵琶湖の水を京都へ引こうという構想は、江戸時代からありました。北陸から琵琶湖を経て運ばれた物資は、大津で牛車に積み替えねばならず、費用がかさんだためです。構想が現実の事業になったのは、1869年(明治2年)の東京遷都のあとでした。人口が減り産業が振るわなくなった京都を立て直すため、1881年(明治14年)に予備調査が始まり、第3代京都府知事の北垣国道氏が事業を推し進めます。設計と工事指導の全権を任されたのは、工部大学校を出たばかりの20代の技師、田辺朔郎氏でした。当時の大事業はお雇い外国人の技師に頼るのが通例でしたが、琵琶湖疏水は田辺氏や島田道生氏ら日本人の技術者と職人の手で造られます。当初の目的は舟運でしたが、工事の途中で水力発電に着目し、灌漑、上水道、防火を兼ねる多目的の都市基盤へと広がりました。総工費は125万円。当時の内務省の年間予算を上回る額で、不足分を賄うために市民には地価割、戸数割、営業割の3種の税が課されました。
禅寺の境内を渡る14のアーチ
蹴上で第一疏水から分かれ、南禅寺、若王子、吉田山の東北を経て下鴨、堀川へと向かうのが疏水分線です。当初は幹線として計画されましたが、規模を縮めて枝線となり、沿線への水力、灌漑、そして木造建築の密集する古都への防火用水の供給を担いました。工事は1887年(明治20年)9月に始まり、1890年(明治23年)3月に竣工しています。この水路が南禅寺の境内を横切る場所に架けられたのが水路閣です。完成は1888年(明治21年)とする記録と、翌年とする記録があります。赤レンガと花崗岩で築かれた14連のアーチ橋で、橋長は93.2m、幅4.06m、高さ13m。2基の橋台と13基の橋脚が大小のアーチを連ね、直径2.4mの水路を毎秒2トンの水が流れます。古刹の風致を損なわないよう、古代ローマの水道橋を思わせる意匠が選ばれ、境内の景観との調和が図られました。
都市の再生と、暮らしの揺らぎ
京都を再生するための事業は、同時に人々の暮らしを揺るがしました。南禅寺付近の大規模な掘削で周辺の井戸水が枯れ、生活に大きな影響が出ます。舟運が始まると、それまで高瀬川で舟を曳いていた人足たちが職を失い、用地の買収をめぐる裁判も相次ぎました。上下流の利害が絡む滋賀県や大阪府では水害を心配する反対運動が起こり、京都府は両府県に予防工事の費用を支出しています。難工事のなかで命を落とした人は17名にのぼりました。田辺朔郎氏は1902年(明治35年)、自費で蹴上に弔魂碑を建て、その霊を慰めています。疏水の舟運は昭和の初めに役目を終えますが、水は今も京都の上水道の源として流れ続けています。
国宝となった赤レンガ
1996年(平成8年)、疏水分線は国の史跡に指定されました。そして2025年(令和7年)8月27日、南禅寺水路閣を含む琵琶湖疏水施設は国宝に指定されます。近代の産業・交通・土木の分野から国宝が生まれたのは、これが初めてとされています。分線沿いの若王子から銀閣寺道に至る小道は、哲学者の西田幾多郎氏らが思索しながら歩いたことから、哲学の道と呼ばれるようになりました。古都の禅寺に異国風の構造物として持ち込まれた赤レンガのアーチは、130年余りを経て深い緑に溶け込んでいます。アーチの上を流れる水の音を聞きに、訪ねてみてはいかがでしょうか。
(2026年9月執筆)

お寺と水路という希少な組み合わせは今なお多くの人々を魅了します。
PHOTO:写真AC
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