権現堂川用水樋管群
- 建物・施設
江戸を守った堤と、天皇を迎えた誇り
埼玉県幸手市に位置する権現堂堤は、天正4年(1576年)に初めて築かれたと『新編武蔵風土記稿』に記されています。天正18年(1590年)の徳川幕府による関東入りを機に利根川などの大河川が改修されると、この堤防は「御府内御囲堤」と呼ばれ、江戸の町を水害から守る要衝となりました。明治8年(1875年)には多額の費用を投じた堤防工事が着工し、同年10月に新堤が完成。翌明治9年(1876年)6月には東北巡幸の折に明治天皇がこの堤防を視察し、金100円の下賜とともに「行幸堤」と名付けることが許されました。その誉れを伝えるため、明治10年(1877年)1月には右大臣・岩倉具視の題字による「行幸堤之碑」が建立されています。明治43年(1910年)の関東大洪水を機に利根川・中川の大改修が進むと、権現堂川は江戸川から切り離されて役割を終え、静かな廃川へと姿を変えました。昭和14年(1939年)には、元村長の巻島清十郎が『権現堂川廃川ノ記』を書き上げ、変わりゆく故郷への郷愁を今に伝えています。
渋沢栄一のレンガが積み上げた、水門
樋管群の核となる「権現堂川用水新圦」は、明治38年(1905年)、農業用水を取り入れる取水樋門として竣工しました。幅1.2メートル、長さ14.5メートルの矩形断面を持つこの水門は、赤茶色のレンガを「イギリス積み」で丁寧に積み上げた構造で、「上敷免製」の刻印が今も残っています。このレンガは、渋沢栄一の主導によって設立された日本煉瓦製造株式会社の工場で、最新鋭の「ホフマン式輪窯」を用いて焼き上げられたものです。埼玉県は県内の治水工事にこのレンガを積極的に指定材料として推奨しており、新圦の壁面は近代化を目指した人々の情熱の結晶ともいえます。建設から100年以上を経てなお当初の姿を留めるこの水門は、平成22年(2010年)、隣接する巡礼樋管とともに土木学会選奨土木遺産に選ばれました。
母娘の祈りが眠る、巡礼樋管
もう一つの主役「巡礼樋管」は、昭和8年(1933年)に取水樋門として建てられました。この場所には江戸時代から木製の「順礼樋管」があり、明治32年(1899年)に一度レンガ造りへ改築されたものの、直後の洪水で大破し木製に戻されるなど、幾度も改築が繰り返されてきました。現在の巡礼樋管は幅2.4メートル、長さ4.6メートルの鉄筋コンクリート造アーチ形で、高欄には昭和初期らしい意匠が凝らされています。そのすぐそばには、享和2年(1802年)の大洪水の際に堤を守るため人柱になったと伝わる巡礼の母娘の伝説(順礼伝説)が残り、明治32年の洪水で命を落とした殉職者たちとともに、昭和8年(1933年)4月建立の「順礼供養塔」に弔われています。
桜の名所として、今も生きる堤
かつて急流が轟音を響かせていた権現堂川の面影は、現在では行幸湖や中川上流の水面にわずかに残るのみです。春には堤防一帯が薄紅色の桜に埋め尽くされ、菜の花なども咲き乱れる、市民に親しまれる憩いの場となっています。樋管群の周辺には親水公園が整備され、静かなせせらぎがかつての濁流の記憶を優しく包み込んでいます。役目を終えた新圦は、今は親水公園の水を中川へ流す排水溝として余生を送り、先人たちが築いた治水の知恵とともに、この地に静かに佇み続けています。
(2026年7月執筆)







