田辺市立平瀬小学校 閉校
- 文化・教育施設
日置川のほとりに刻まれた行政と教育の拠点
江戸時代の『続風土記』にも記された平瀬は、日置川と小合川が交わる穏やかな瀬の風景に由来する、美しい名を持つ地名です。明治22年(1889)に富里村の一部として歩み始めたこの地には村役場が置かれ、山あいの静かな集落でありながら、行政や経済の要所として活気に満ちていました。昭和31年(1956)に大塔村へと編入されてからも、平瀬小学校は日置川沿いの盆地で多くの子どもたちを育む学び舎として、中心的な役割を担い続けました。かつては半農半林の暮らしが営まれ、人々は険しい水呑峠を越えて田辺市街地へ向かうなど、力強く生活を支えていたのです。「乙女の寝顔」に例えられる半作嶺の山容に見守られ、この学び舎は地域の人々に大切にされながら多くの児童を送り出しました。
世代を超えて受け継がれる温かな交流の灯
校舎の灯が消えた後も、子どもたちと地域住民の絆は決して途切れることはありませんでした。かつては、統合先の富里小学校に通う児童たちが平瀬地区を訪れ、お年寄りから当時の暮らしや歴史を直接聞き取る「地域探検」が行われており、毎年秋の学習発表会では、子どもたちが学んだ成果を地域の方々へ向けて一生懸命に披露し、心温まる交流が続いていたのです。静かな集落に子どもたちの元気な歓声が響く日は、お年寄りにとっても大きな生きがいとなっており、かつて地域全体で子どもを育んでいた温かな空気感は、長い間、人々の触れ合いの中に大切に息づいていました。
時代の変遷と記憶を留める歴史民俗資料館
時代の潮流には抗えず、平瀬小学校は昭和57年(1982)に多くの人々に惜しまれつつ閉校し、その長い歴史に幕を下ろしました。さらに過疎化が進む中、子どもたちの新たな学び舎であった富里小学校も平成30年(2018)に鮎川小学校へと統合され、閉校を迎えました。かつての青々とした田畑には休耕田や太陽光パネルが混在するようになり、風景は刻一刻と変化を遂げています。国道を進み、平瀬トンネルを抜けた先に広がる集落の片隅には、大塔村時代に設立された「田辺市大塔歴史民俗資料館」がひっそりと佇んでいます。そこには古い観光看板とともに当時の村の記憶が留められており、小学生の姿が消えてしまった現在の平瀬において、往時の賑わいと教育の歩みを今に伝える貴重な道標となっています。
ふるさとの面影を未来の記憶へと繋いで
建物としての学び舎は失われましたが、平瀬の地で育まれた教育の精神と郷土愛は、子どもたちの学習活動などを通じて確かに未来へと繋がれてきました。険しい山道や自然の厳しさと共生しながら、豊かな村の文化を築き上げた先人たちの歩みに、深い敬意を表さずにはいられません。乙女の寝顔を彷彿とさせる美しい半作嶺の山並みとともに、平瀬小学校という名の学び舎に刻まれた大切な記憶が、これからも地域の人々の心の中で温かく灯り続けることが願われます。
(2024年9月執筆)

かつての校舎はみそ作りの拠点として活躍しています。

卒業生・先生・地域住民など関係者様の心の中に、美しい思い出が永遠に記憶されますように。
PHOTO: 廃校5000 様







