Final 2013年3月31日 記事根室市立珸瑶瑁小学校 閉校のイメージ画像 History 114年

根室市立珸瑶瑁小学校 閉校

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明治の開拓とともに始まった、学びの歴史

1899年(明治32年)7月26日、北海道の開拓が進む中、根室の地に「珸瑤瑁教育簡易所」として学び舎が誕生しました。1907年(明治40年)には「珸瑤瑁尋常小学校」と名を改め、地域に根ざした教育施設としての基礎を固めます。1947年(昭和22年)には中学校が併置され、同年には後に独立する分校も設立されました。この分校は1949年(昭和24年)に「温根元小学校」として独立し、珸瑤瑁の地から新たな学校が巣立っていきました。長い歴史の中では木造校舎の時代を含め3度全焼したというエピソードも残されており、そのたびに地域の力で再建されてきたと伝えられています。2013年(平成25年)3月31日、共和小学校、華岬小学校、温根元小学校とともに新設の歯舞小学校へ統合され、114年間の歴史に幕を下ろしました。


日本最東端の学び舎で過ごした日々

「珸瑤瑁(ゴヨウマイ)」というアイヌ語由来の難読地名を持つこの学校は、日本最東端の納沙布岬からわずか2キロメートルほどの場所に位置し、公立学校として「日本最東端の学び舎」の誇りを持っていました。校庭には「日本最東端の学校」の石碑が佇み、校章には海の波と朝陽を図案化したデザインが採用され、校歌には周辺海域に響く「ノサップの霧笛」が詠み込まれていました。この霧笛も、2009年(平成21年)を最後に運用が廃止されたと伝えられています。閉校時の在籍児童数は36名、教職員は本務教員9名・本務職員2名という体制で学校運営が行われていました。運動会は近隣の珸瑤瑁保育園と合同で開催され、2005年(平成17年)からは北方領土対策室職員による「四島教室」も開かれるなど、地域と結びついた教育が続けられていました。


海とともに生きた、珸瑤瑁の暮らし

学校を支えた保護者たちの多くは、周辺海域で漁業を営む人々でした。珸瑤瑁漁港は第1種漁港に指定され、昭和28年(1953年)12月から貝殻島周辺のコンブ漁の前進基地として機能してきました。夏には海霧が頻発する厳しい自然環境の中、サンマやサケ、ウニ、ハナサキガニなど豊かな海の幸が水揚げされ、荒天時には漁船の緊急避難場所としても利用されてきました。周辺の珸瑤瑁水道は、1945年(昭和20年)にマッカーサーラインが設定されるなど、北方領土問題と隣り合わせの歴史を持つ海域でもあります。広大なグラウンドは12,457平方メートルにおよび、昭和53年(1978年)建築の鉄筋コンクリート造校舎と、翌年建設された体育館、そして教員住宅6戸が、厳しい自然の中で子どもたちと教員の暮らしを支えていました。


役目を終えて、なお残る記憶

閉校後、児童の姿が消えた校舎と体育館は地域の「避難所」として、広大なグラウンドは「避難場所」や「ドクターヘリ離発着所」として、新たに防災拠点の役割を担うことになりました。しかし津波浸水区域に位置することや老朽化の進行が課題となり、根室市は平成26年(2014年)9月、この施設を「活用検討施設」に位置づけ、民間からの活用アイデアを募る方針を定めました。「日本一東にある学校」として地域内外で話題になることもあったというこの学び舎は、教育の役目を終えた今も、北の果ての地で地域の歴史と人々の記憶を静かに伝え続けています。

(2026年7月執筆)

珸瑶瑁小学校

確かにここに学び舎が存在した。その証です。

 

珸瑶瑁小学校

かつては子供たちの賑やかな声が響いていたことでしょう。もう一度その光景を見てみたいものです。

PHOTO:poteto089aaa

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