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【陸軍墓地】円形野外講堂

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軍都の記憶を今に伝える円形野外講堂の誕生

明治30年(1897)に歩兵第48連隊が設置されて以来、福岡県久留米市は陸軍第18師団司令部などが集積する「軍都」として栄えてきました。大正期には最高で1,319人を収容した久留米俘虜収容所が置かれ、ドイツ兵との文化交流も行われた歴史を持ちます。その後、昭和14年(1939)7月から野中町において総面積約71,000平方メートルに及ぶ広大な陸軍墓地の造成が始まりました。総工費25万円という巨費が投じられ、市も資金を負担した街を挙げた大プロジェクトは、2年9ヶ月の歳月を経て昭和17年(1942)4月に竣工を迎えました。その際、墓地の一角の林の中に、約500人を収容できる「円形野外講堂」がひっそりと姿を現したのです。


地域の人々の奉仕と受け継がれる精神

この建設用地には、ブリヂストンの創業者である石橋正二郎氏から寄贈された私有地も含まれていました。造成には筑後地方の2市6郡や佐賀市などから延べ11万2千人もの人々が動員され、愛国婦人会や町内会などの団体が奉仕に参加しました。ステージ中央の背面に掲げられた額文字「養其神」は、昭和15年(1940)8月に第56師団長に就任した渡辺正夫陸軍中将が揮毫したものです。 「自己の精神の長い修養に努めなさい」という意味を持つこの3文字は、講堂に集う若者たちを静かに導いていました。昭和17年(1942)4月の竣工祭では地元の女子青年団による奉納舞踏が披露され、戦時下において一瞬の華やぎを添えました。


古代様式を彷彿とさせる類稀な建築構造

この円形野外講堂は直径22メートルの規模を持ち、古代ギリシアやローマ時代の「オルケストラ」を彷彿とさせる、昭和前期の日本において他に類を見ない稀有な構造をしています。自然の傾斜を活かしたすり鉢状の地形において、扇状の舞台を中心に100度以上の広角で座席が同心円状に配置され、周囲の土塁が音響効果を高める設計でした。ステージには鉄筋が一切使われておらず、セメント製レンガを積み上げてモルタルで仕上げる素朴な工法が用いられています。背面の球状壁面には2つの黒板がはめ込まれ、袖のアーチ門の奥には楽屋跡が残されています。また、緩やかな斜面には、優美なアーチ状の脚部に支えられたコンクリート製ベンチが3列の同心円状に配置されています。


時代の変遷と緑豊かな周辺環境

講堂の近くには昭和14年(1939)7月に着工された高さ17メートルの忠霊塔がそびえ、周辺一帯は風致地区として豊かな丘陵樹林地が守られてきました。かつての陸軍墓地は、昭和23年(1948)の用地寄付を機に久留米競輪場へと姿を変え、現在は多くの観客の歓声が響いています。その競輪場の喧騒から少し離れた林の奥に、円形野外講堂は静かに佇んでいます。かつて軍靴が響いた幅約28メートルの参道は落ち葉が降り積もる静寂に包まれており、現在は老朽化に伴う保護の観点から原則立ち入り禁止となっています。そのため、訪れた人々は立ち入りが制限された外側から、その貴重な姿を静かに偲ぶこととなります。


未来へとつなぐ保存活動と新たな息吹

近年、この遺構を類例がなく極めて貴重な遺構として後世に伝えようと、地元の「池の谷自治会」が中心となって歴史を学ぶ活動が続けられています。平成30年度(2018)には久留米市民活動・絆づくり推進事業の支援によって説明板が設置され、令和3年(2021)1月29日には清掃されたステージで数十年ぶりとなる音楽会が開催されました。暗い印象になりがちな戦争遺跡を、防犯面も考慮した地域で一番明るい憩いの場へと改善するため、住民による保存と活用の道が模索されています。この貴重な歴史的建造物が、過去の記憶を刻む象徴として、また地域社会の絆を深める場として、末永く未来へ継承されることが願われます。

(2023年7月執筆)

PHOTO:写真AC

「石橋正二郎」氏。ブリヂストン創業者です。

ブリヂストン石橋正二郎伝: 久留米から世界一へ

氏のゆかりの地の一つでもあります。永久保存版としてお手元に確保されてはいかがでしょうか?

 

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