稲童掩体
- 建物・施設
海風の中に築かれた飛行場 ― 築城海軍航空基地、設置の記録
1939年(昭和14年)春、旧日本海軍は築城海軍飛行場の建設設計を八津田村役場へ通知しました。同年12月に建設工事が開始され、呉鎮守府に近く気象条件が安定しているという地理的条件から選定されたこの地は、当初「行橋飛行場」と呼ばれていましたが、視察に訪れた軍高官が築城駅で下車した経緯から「築城飛行場」と正式に名付けられました。滑走路建設予定地にあった正八幡神社の社殿は、解体せずに約900メートル離れた場所へ3か月以上かけて曳家されています。建設には地元住民に加え、朝鮮半島から徴用された労働者も動員されました。1942年(昭和17年)10月1日、宮崎県富島町で「築城海軍航空隊」が組織され、1943年(昭和18年)6月にこの飛行場へ移転しています。総面積145万平方メートルの敷地に、長さ1,800メートル・幅50メートルの滑走路と、全長305メートル・幅67メートルの着艦訓練場が整備されました。1944年(昭和19年)3月には筑波海軍航空隊の移転により第2代築城海軍航空隊が編成され、1945年(昭和20年)2月からは練習機による特攻訓練が始まっています。
稲童の丘に隠された、掩体壕の群れ
1944年(昭和19年)8月頃から、飛行場北側の稲童地区に航空機を隠す掩体壕の建設が急がれ、有蓋・無蓋合わせて約30基が築かれました。中でも稲童1号掩体壕は同年8月に建設された鉄筋コンクリート製の有蓋掩体で、盛土全幅42.0メートル、盛土高8.5メートル、奥行き23.5メートル、開口部は幅26.8メートル・高さ5.5メートルという規模を持ち、夜間戦闘機「月光」や陸上爆撃機「銀河」などの中型機を格納しました。建設には土を盛って型を作り、コンクリートを流し込んだ後に内部の土を掻き出すという工法が用いられ、将兵、朝鮮半島出身の労働者、学生、地元住民など多くの人々が動員されています。屋根には草木を植えたカモフラージュが施されましたが、掩体壕をつなぐ幅40メートルの誘導路が目立ち、稲童地区は米軍機の標的となりました。
空襲が奪った、地域の命
築城飛行場周辺への本格的な空襲は1945年(昭和20年)3月18日に始まり、稲童地区の民家4軒が全焼しました。同年7月25日の空襲では住民6名が犠牲となり、終戦1週間前の8月7日には民家21軒が全焼、上城井小学校では教師1名と児童4名が犠牲となっています。同日、重箱池(横井塚池)に身を潜めていた操縦学生37名が機銃掃射により命を落とし、翌8日、城井川の河川敷で火葬されました。地元・高塚地区の住民が遺骨を集めて共同墓地に埋葬し、1967年(昭和42年)に「無名勇士之墓」が建立されています。3月18日午前には神風特別攻撃隊菊水部隊「銀河隊」の6機がこの基地から出撃し、うち5機が体当たり攻撃を行い15名が戦死しました。8月8日には長崎・大村飛行場から発進した戦闘機「紫電改」が空中戦の末に築上町小原地区へ墜落しています。
史跡公園として残る、戦争の記憶
終戦後の1945年9月、海軍航空隊は廃止され、1955年(昭和30年)以降は航空自衛隊築城基地として現在に至っています。行橋市教育委員会は2002年(平成14年)12月2日、稲童1号掩体壕を市の指定文化財(史跡)に指定し、翌2003年(平成15年)から発掘調査と補修工事を実施しました。調査では米軍のものとされる機銃弾(実弾)や爆弾の跡などが発見されています。2023年(令和5年)3月28日、「海軍築城航空基地稲童掩体」の名称で福岡県指定史跡に登録されました。現在は「史跡公園(稲童1号掩体壕史跡広場)」として整備され、移設された奉安殿や、実弾の弾頭が残る民家の赤レンガ塀とともに一般公開されています。
(2026年9月執筆)
PHOTO:写真AC







