回天訓練基地跡
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苦しい戦局の中で生まれた、ひとつの兵器
太平洋戦争が長期化し戦局が悪化する中、昭和18年(1943年)秋、九三式酸素魚雷を人間が操縦する特攻兵器へと改造する構想が生まれ、昭和19年(1944年)8月に「回天」として正式採用されました。同年9月1日、瀬戸内海に浮かぶ大津島に第一特別基地隊として全国初の回天訓練基地が開設され、わずか数日後の9月5日には本格的な搭乗訓練が始まりました。開発に情熱を注いだ黒木博司大尉と仁科関夫中尉は、基地開設と同時に着任し、自ら訓練の先頭に立ちました。基地の基礎には、大分県から約30時間かけて曳航された重量700トンのコンクリートケーソン8個が用いられ、魚雷整備工場と訓練基地を結ぶ長さ247メートルのトンネルには、コンクリートで埋め戻されていますが、当時運搬に使われたトロッコのレール跡がくっきりと残っています。
海に散った、若者たちの記憶
昭和19年(1944年)9月6日、黒木大尉と樋口大尉は悪天候の中で訓練を行い、徳山湾の海底に沈んだ艇の中で亡くなりました。黒木大尉は息が絶えるまでの間、事故の原因や改良点を手帳に書き残したと伝えられています。同年11月、初の出撃部隊「菊水隊」が大津島の海から出撃し、仁科中尉もこれに志願して戦死しました。終戦までに回天作戦全体で搭乗員や整備員ら145名が命を落とし、その平均年齢は21.1歳でした。出撃前日には故郷への短い休暇が与えられましたが、家族に別れを打ち明けることは許されず、若者たちは胸に秘めたまま島へ戻ったといいます。
戦後を生き延びた、静かな遺構
戦後、島内の多くの軍事施設が解体される中、回天発射訓練基地跡だけは解体を免れ、全国で唯一現存する回天の訓練遺構として今に残されています。点火試験場跡や危険物貯蔵庫跡、変電所跡なども島内にひっそりと佇み、点火試験には地元の女子挺身隊員も動員されていました。平成7年(1995年)から翌年にかけて、潮風で劣化したコンクリートを保護する改修工事が行われ、後世へ残すための手当てが施されました。
平和を伝える場所として
昭和43年(1968年)に開館した回天記念館は、全国からの寄付をもとに建てられ、平成10年(1998年)には約1300点の遺品を展示する平和学習の場として生まれ変わりました。かつて兵舎や整備工場が立ち並んでいた跡地の多くは、現在は大津島小学校や中学校、ふれあいセンターとして活用され、子どもたちの声が響く場所となっています。訓練基地跡は平成18年(2006年)、その歴史的・土木的価値が評価され土木学会選奨土木遺産に認定されました。穏やかな瀬戸内海を望むこの島は、若くして命を落とした搭乗員たちの記憶とともに、平和の尊さを静かに語り継いでいます。
(2026年7月執筆)
PHOTO:PIXTA
太平洋回天作戦に散った男達の熱涙青春群像が描かれます。
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