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山田堰

  • 文化・教育施設

干ばつが生んだ、水を求める願い

1662年(寛文2年)、筑後川流域を襲った大干ばつが深刻な飢饉を招き、安定した水源を求める農民たちの願いが取水工事の契機となりました。1664年(寛文4年)、堀川用水が開削され、荒れ地だった約150ヘクタールが水田へと生まれ変わります。その後も切貫水門の増設や堀川南線の工事が重ねられ、灌漑面積は着実に広がっていきました。しかし従来の突堤形式は水害のたびに破損を繰り返し、1790年(寛政2年)、筑後川の川幅いっぱいに自然石を敷き詰めた総石張りの「山田堰」がついに完成しました。


命がけで水を通した、古賀百工の生涯

1718年(享保3年)に生まれた古賀百工は、堀川南線の工事で高張提灯や曲尺といった手作りの道具を使い、長距離の高低差を自らの足で測量しました。山田堰の全面改修にあたっては、取水量増加による湿害を恐れる下流の農民たちの猛反対に対し、干ばつ解消の利点を説き伏せて同意を取り付けます。全財産を投じて農民たちとともに汗を流した百工は、新田開発と灌漑拡大という偉業を成し遂げ、1798年(寛政10年)に81歳でこの世を去りました。時代を超えて、2003年には中村哲医師が、アフガニスタンのクナール川で山田堰の石張り式斜め堰をモデルに取水堰の建設を始めます。2019年に中村医師が亡くなるまでに完成した9カ所の堰は、広大な砂漠を農地に変え、多くの人々の命を支えました。


石が受け流す、川の力

山田堰は、水流に対して約20度の角度をつけて斜めに築かれ、水の力を柔らかく受け流す構造をしています。堰の内部には「南舟通し」と「中舟通し」の水路があり、かつては帆掛け舟が往来し、現在は魚道としても機能しています。取水口手前の「砂吐き」は土砂を下流へ排出する仕組みで、水門の吐き出し口付近の水底を低くし、サイフォンの原理を利用するなど、随所に緻密な工夫が施されています。下流に並ぶ菱野の三連水車をはじめとする7基の水車は、電力を使わず川の流れだけを動力に水田へ水を送り続け、実働する揚水水車として日本最古の歴史を誇ります。


受け継がれる、水と人の営み

毎年6月17日には水神社で通水式の神事が行われ、堀川用水の岸辺には彼岸花やコスモスが咲き、お盆には水車がライトアップされて帰省する人々を迎えます。2008年に結成された「堀川の環境を守る会」による清掃活動が定着し、地域の小学校でも先人の苦労を学ぶ体験学習が行われています。1990年に堀川用水と水車群が国の史跡に、2014年には山田堰もあわせて世界かんがい施設遺産に登録されました。堀川用水の開削から360年以上、山田堰の完成から200年以上にわたり、まちと農業を支え続けてきた先人たちの知恵として今も生き続けています。

(2026年7月執筆)

その美しい姿は多くの人を魅了します

(2023年12月執筆)

PHOTO:PIXTA

高潔の医師「中村哲」氏。氏の理念の源にもなった山田堰。

良心の実弾 医師・中村哲が遺したもの

この機に中村医師の志に触れてみてはいかがでしょうか?

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