吾嬬橋
- 建物・施設
利根川に架けられた、坂東橋の誕生
吾嬬橋の歴史は、明治34年(1901年)12月、現在の国道17号にあたる利根川に「坂東橋」として架設されたところから始まります。設計を手がけたのは沖一誠氏と佐藤三四郎氏で、アメリカ式のペンシルベニア型トラス構造を群馬の風土に適応させました。トラスの入り口には、明治を代表する書家・日下部鳴鶴の筆による橋銘板が飾られ、渡る人々に風格を感じさせていました。工事中の明治34年1月15日には、水中基礎工事にあたっていた潜水夫・原山常太氏が事故で殉職し、渋川市中田の竜伝寺境内には今も彼を悼む供養碑が残されています。度重なる水害や鉄材価格の高騰により、工費は当時の額で15万5000円余という巨費に達しました。
路面電車の音と、老朽化の年月
明治43年(1910年)からは橋の路面に前橋電気軌道の単線が敷かれ、路面電車が人と共に川を渡るようになりました。戦中戦後には代燃車の熱源が原因で床組が火災に見舞われ、昭和27年(1952年)の調査では接続ピンの摩耗や引張材の変形など深刻な劣化が確認されます。老朽化した坂東橋では自動車のすれ違いができず、1つのトラスに1台しか入れない交互通行が続けられました。昭和34年(1959年)、新しい橋への架け替えに伴い坂東橋は解体され、翌昭和36年(1961年)に3つのトラスは赤城村・子持村・六合村へとそれぞれ分配されます。六合村に渡った1連は、山深い白砂川を渡る県道橋「吾嬬橋」として再び組み立てられました。
唯一残った、明治の技術遺産
渋川市に残った2連のトラスは「敷島橋」として使われた後に撤去され、現在は六合村の吾嬬橋のみが地球上に現存する唯一の生き残りとなっています。日本国内で唯一現存するピン結合タイプのペンシルベニア型鋼トラス橋であり、最大支間長67.3メートルは明治期の道路用トラス橋として最大級の規模です。橋に使われた鋼材はすべて明治34年当時のアメリカ産輸入鋼材で、一世紀を超えてなお耐久性を保っています。昭和52年(1977年)に朱色の新吾嬬橋が完成すると、旧橋は村道へと移管され、静かな生活道路としての役目を担うようになりました。平成18年(2006年)11月3日には、土木学会の選奨土木遺産に認定されています。
秘境に架かる、静かな余生
吾嬬橋が架かる旧六合村は、群馬県最北西の峻険な山々に囲まれた小さな山村です。かつて激流の利根川で路面電車の轟音にさらされていたこの鉄橋は、今では白砂川渓谷の水音に包まれながら、地元の軽トラックが時折渡るだけの穏やかな余生を送っています。中之条町役場六合支所から雑木林を抜けて谷底へ下ると出会えるこの橋は、対岸の生須集落へと続くヘアピンカーブとともに、山あいに暮らす人々の生活を長く支え続けてきました。
(2026年8月執筆)
PHOTO:PIXTA







