荻窪用水
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水を求めた村と、藩政改革の願い
用水が完成する以前の荻窪村は水が足りずに水田が開けず、おもに畑でおかぼ(陸稲)や麦、粟を育てて食いつなぐ暮らしでした。周囲からは「荻窪の芋食いには娘は嫁にやれぬ」と揶揄されるほど、水不足は深刻だったと伝えられています。第七代小田原藩主・大久保忠真は、天明の地震や飢饉による藩財政の困窮を打開するため、山麓の畑を新田へ転換する藩政改革の柱として荻窪用水の開削を直轄事業として援助します。寛政9年(1797年)に工事が始まり、寛政11年(1799年)に主要な用水路が完成したことが『萬松院文書』『宝泉寺文書』に記されていますが、天明2年(1782年)の小田原大地震の混乱期に着工し、周辺五ヶ村の共同事業として享和2年(1802年)に通水したという異説も語り継がれています。
提灯の灯りと、40のトンネル
工事の総指揮を執ったのは、旧川村で酒造業を営む家に生まれた百姓・川口広蔵でした。瀬戸堰の工事で培った測量と土木の技術を携え、藩の援助や周辺五ヶ村の協力を得て、この生涯をかけた難工事の開削へと身を投じます。夜間は旗の代わりに提灯を掲げて高低をはかり、水路の道すじを決めました。暗闇のトンネル工事では大量のカンテラ用の油(約70リットル入りの樽13個分とも言われる)を燃やしながらノミとハンマーで岩を掘り進めました。かたい溶結凝灰岩に阻まれた「烏帽子岩トンネル」の掘削には1年以上を要し、川口広蔵が信頼を寄せていた弟子の一人が工事中の不慮の事故で命を落とすという悲劇も起きています。難工事の末に成し遂げられたこの偉業を称え、小田原藩主は川口広蔵に終生毎年5俵の米を給し、名主の格へと取り立てました。
近代技術と、震災からの復興
荻窪用水は箱根町湯本の取水口から荻窪地区まで全長約10.3km、高低差わずか10.8mという緻密な傾斜計算で築かれています。用水路には約6万6000年前の箱根火山噴火による溶結凝灰岩が利用され、水路沿いには最盛期19軒もの水車小屋が並びました。大正12年(1923年)の関東大震災で用水は全壊しましたが、わずか2年後の大正14年(1925年)には復旧を果たします。昭和12年(1937年)には箱根登山鉄道が水路の維持経費を負担する代わりに水量を利用する山崎発電所が建設され、内壁のコンクリート補強工事も行われました。
受け継がれる水と、感謝の祈り
平成23年(2011年)11月、江戸時代後期からの高度な土木技術と歴史的景観が評価され、荻窪用水は土木学会の選奨土木遺産に認定されました。今も荻窪地区には現存する唯一の「駒形水車」が残り、往時の水力利用の知恵を伝えています。地域の人々は完成から200年以上を経た今も、春と秋のお彼岸に川口広蔵の墓前へ集まり「広蔵念仏」を唱え、その功績に感謝を捧げ続けています。
(2026年8月執筆)

地域の人々に大切にされている水車小屋です。
PHOTO:PIXTA
皆さまご存じの童謡「めだかの学校」
当地がモデルとされています。







