二ヶ領用水
- 建物・施設
家康の号令が生んだ、14年の大工事
慶長2年(1597年)、関東に新たな拠点を築いた徳川家康は、治水と米の増産を命じ、壮大な用水開削プロジェクトを始動させました。慶長6年(1601年)に用水奉行に任命された代官・小泉次大夫吉次は、荒々しい多摩川と向き合い、工事を牽引します。地元の農民たちが泥にまみれながら14年もの歳月をかけ、慶長16年(1611年)、用水は完成を迎えました。武蔵国の「稲毛領」と「川崎領」の2つの領にまたがって掘られたことから「二ヶ領」の名が定着し、寛永6年(1629年)には宿河原にも取水口が増設され、灌漑面積は最大2400町歩に達しています。
水を分け合う知恵と、争いの記憶
用水は多くの村々を潤しましたが、水量は米の死活を分けるものであり、日照りの夏には水門を巡る「水騒動」が各所で繰り返されたと伝えられています。久地で合流した流れを水門だけで久地堀、六ヶ村堀、川崎堀、根方堀の4つの堀へ分けようとした「久地分量樋」も、川の中央部と岸辺の流速の違いから特定の村に水が偏るという課題を抱えていました。この長年の課題を解決したのが、多摩川右岸農業水利改良事務所長・平賀栄治です。彼は逆サイフォンの原理を応用し、水圧だけで公平に水を分配する「久地円筒分水」を昭和16年(1941年)に完成させました。電気や機械を一切使わないこの仕組みは、平成10年(1998年)に国の登録有形文化財に登録されています。
都市化がもたらした、清流の危機
昭和14年(1939年)、余剰水を利用して日本初となる公営の工業用水道が敷設され、京浜工業地帯の発展を支えました。しかし昭和30年(1955年)に約45万人だった川崎市の人口は、わずか5年で約63万人へと急増し、のどかな水田地帯は急速に近代都市へと姿を変えます。都市化に排水処理が追いつかず、多量の家庭排水が流れ込んだ結果、清流はヘドロが堆積するドブ川となり、昭和49年(1974年)には取水口の一部が取水停止に追い込まれました。昭和46年(1971年)には国の「一級河川二ヶ領本川」に指定され、都市河川としての新たな歩みが始まっています。
清流を取り戻し、未来へ受け継ぐ
川崎市による下水道整備が進み、普及率が99.3パーセントに達すると、用水は見違えるほどきれいになり、鮎が棲める清流を取り戻しました。昭和63年(1988年)には「ふるさとの川モデル事業」の指定を受け、自然石の散策路や桜並木が整備されていきます。用水完成から400年目の平成23年(2011年)には、市内35の市民団体が竣工400年を祝う記念プロジェクトを展開しました。そして令和2年(2020年)3月10日、二ヶ領用水は三重県の立梅用水に続き、日本で2例目となる用水の国登録記念物に登録されました。江戸初期の農民たちが築いたこの水路は、今も川崎の街を静かに流れ続けています。
(2026年8月執筆)
PHOTO:写真AC
歴史ある用水路の成り立ちは子供達にも伝えたい美しい史実です。
お子様の就寝前の読み聞かせのための絵本としていかがでしょうか?







