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石原岳堡塁

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佐世保湾口を背後から守るために

1886年(明治19年)9月、朝鮮半島の情勢が緊張するなか、参謀本部は佐世保を含む5箇所で海岸防禦を急ぐべきだと提起します。1889年(明治22年)に佐世保鎮守府が開庁すると、それまで静かな漁村だった佐世保港一帯は、海軍の一大拠点へと急速に姿を変えていきました。その防備の一翼として計画されたのが、湾口の南側を背後から守る陸戦の拠点、石原岳堡塁です。工事は1897年(明治30年)10月21日に起工しました。標高77.1mの山頂を切り拓いた約2ヘクタールの敷地に施設が組み上げられ、1899年(明治32年)12月31日に竣工します。さらに1900年(明治33年)9月には重砲の据え付けが終わり、陣地としての警戒態勢が整いました。海から迫る敵艦だけでなく、上陸して背後へ回り込む部隊までを想定した備えでした。


石が想定していた戦い

工事の最盛期にはダイナマイトの爆音と石を打つ音が山々に響き、長閑だった山林の静けさは一変しました。資材は海から運び込まれ、1897年(明治30年)3月27日には工兵第3方面議長の古門宣譽氏の建議により、瀬川村寄船の小湾に渡止場が設けられています。水質の悪さやチフスの流行と闘いながらの工事でした。こうして築かれた堡塁は丘の上部を削り出した5角形をなし、胸墻には克式35口径10cm加農砲6門が2門ずつ3基の砲座に、鋼製9cm臼砲4門が4基の独立砲座に据えられました。外周には深い空堀がめぐらされ、侵入した敵兵を側方から掃射するための外岸側防匣室が突き出しています。


砲声を上げないまま終えた任務

1904年(明治37年)2月の日露戦争開戦にあたり動員が下令され、兵士たちは砲頭で実戦に備えました。しかし翌1905年(明治38年)5月、対馬沖でバルチック艦隊が撃破されると、この堡塁は一度も砲声を発することなく任務を終えます。1912年(明治45年)2月には要塞司令官の鑄方徳藏氏が銃眼を機関銃用に改める申請を出しましたが、陸軍大臣の石本新六氏は整理方針が定まるまで保留と判断しました。1913年(大正2年)の「要塞整理要領」で廃棄の方針が固まり、1929年(昭和4年)6月14日、陸軍省の台帳から除籍されます。戦後は旧大蔵省から旧西海町へ土地が移り、現在は石原岳森林公園として整備されています。


戦いを知らない砲台跡

築後100年以上を経た石造りの空間には地下水が滴り、ひんやりとした静寂と苔の匂いが漂います。かつて兵士が身を潜めた棲息掩蔽部のかたわらには散策路とキャンプ場が整えられ、訪れた人が森の時間を過ごしています。国の史跡にも登録有形文化財にも含まれず、日本遺産「鎮守府」の構成文化財からも行政区域の違いで対象外となった遺構ですが、明治の築城技術がこれほど整った形で残る例は多くありません。守るために積まれた石は、ついに使われることなく風化しました。砲声を知らないまま役目を終えた砦は、小鳥のさえずりと風の音のなかに佇んでいます。

(2026年9月執筆)

後世に伝承すべき歴史を学ぶ場所です。

PHOTO:PIXTA

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