Final 2016年3月31日 記事大宜村立塩屋小学校 閉校のイメージ画像 History 111年

大宜村立塩屋小学校 閉校

  • 文化・教育施設

移転の対立を越えて、地域に根ざした学校

明治41年(1908年)、村役場の移転をめぐる地域対立が激化する中、南部集落の住民600人余りが塩屋小学校に押し寄せ、学校の再建・新築を条件に移転を承認するという歴史的な合意が結ばれました。明治44年(1911年)には高等科の併置により「塩屋尋常高等小学校」へと改称し、近隣の子供たちに高度な教養を授ける拠点となります。しかし昭和20年(1945年)、沖縄戦の激しい空襲により東側木造校舎は爆破され、子供たちと教員たちは山中への避難を余儀なくされました。同年秋、校舎を失った子供たちは集落の広場に集まり、木の葉に文字を書きながら学びを再開したと伝えられています。


塩屋湾のほとりで生まれた、一篇の詩

大正13年(1924年)、宮古島での教員生活を終えた代用教員・金城栄治は塩屋尋常小学校へ赴任し、塩屋湾の波音に囲まれながら子供たちを指導しました。同年6月、彼の詩に近代沖縄音楽の父・宮良長包が哀愁を帯びた旋律を重ね、唱歌「えんどうの花」が完成しています。作詞の舞台については、塩屋の美しい景色や人情に触れて生まれたという説がある一方で、それ以前の宮古島勤務時の子どもたちとの別れや、故郷である那覇市垣花の夕陽を舞台とする説など、複数の有力な背景が語り継がれています。昭和8年(1933年)に赴任した高良忠一教諭は地域のフィールドワークに取り組み、翌昭和9年(1934年)には教員たちとともに手書きの地域史集『大宜味村誌』を編纂しました。


100年の節目を経て、静かに幕を下ろす

昭和23年(1948年)、田港集落にあった初等学校が塩屋へ移され「塩屋初等学校」と改められました。平成17年(2005年)には創立100周年を迎え、盛大な式典が校庭で執り行われます。平成3年(1991年)には「第1回大宜味ふるさと祭り」の会場ともなり、村の融和を祝う祭典で賑わいました。しかし過疎化と少子化による村内小学校の再編・統合が進み、統合を翌年に控えた平成27年(2015年)秋には「最後の大運動会」が開かれ、平成28年(2016年)3月31日、塩屋小学校は地域住民に惜しまれながらその歴史に幕を下ろしました。


体育館に響く、新しい歓声

閉校後、旧校舎や体育館は一般社団法人大宜味ユーティリティセンターが管理し、宿泊施設やレンタルスペースとして活用されています。令和6年(2024年)11月には、この学校の卒業生が、青春の思い出が刻まれた旧体育館を式場に選び、業者を入れない手作りの結婚披露宴を開催されました。県内外から170人ものゲストが集まり、かつて塩屋湾を望んだ廃校の空間には、華やかな歓声が響き渡ったそうです。学校としての役目を終えた今も、塩屋小学校は形を変えながら地域に愛され続けています。

(2026年8月執筆)

 

日本広しといえどこれほど美しい体育館は希少なのではないでしょうか。

 

懐かしい記憶が呼び起こされる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

地域の学び舎を守り抜いた先人達の強い想いを引き継ぎたいものです。

PHOTO:KENT様

 

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