旧豊川海軍工廠
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原野に築かれた200ヘクタールの工場
海軍が機銃と弾薬の量産拠点を求めたのは、1936年(昭和11年)のことでした。仮称「第二A廠」として計画が決まり、2年後の6月1日、旧宝飯郡の本野ヶ原が開廠地に選ばれます。翌年12月15日には開庁式が行われ、原野だった土地に約200ヘクタールの敷地が確保されました。構内は碁盤の目のように91の区画へ整理され、周囲は堀と土塁、排水路で厳重に画されます。開庁当初の中核は、機銃本体を作る機銃部と、弾薬や雷管を扱う火工部でした。その後、1941年(昭和16年)12月に測距儀や双眼鏡を手がける光学部が新設されます。1943年(昭和18年)9月には指揮兵器部、翌年4月には器材部が加わり、機銃と機銃弾薬の生産規模は国内最大となって「東洋一の兵器工場」と呼ばれました。人口の流入は町のかたちも変え、指揮兵器部の設置に先立つ同年6月1日、4つの町村が合併して豊川市が誕生しています。
ケヤキ並木を往来した6万人
正門から南へ一直線に伸びるメインストリートの両側にはケヤキが植えられ、朝夕にはその木漏れ日の下を工員たちが行き交いました。ピーク時には、職員や工員のほか見習工員、徴用工、女子挺身隊、朝鮮人徴用工を含めて6万人が昼夜を分かたず働いています。1944年(昭和19年)4月からは中学校3年生以上の学徒動員が本格化し、全国から集められた若者が機械油の匂う工場に入りました。構内には第二工員養成所と多数の寮が置かれ、海軍式の日課と規律のもと、違反者には罰直と呼ばれる制裁が課されました。女学生や若い女性は「女の兵隊」と呼ばれ、作業着を油で黒くしながら金属部品の削り出しや弾薬の組み立てに従事します。食糧事情は窮迫し、粗末な弁当で空腹をしのぐ日々でした。
8月7日午前10時13分
米軍機が工廠上空で精密な航空写真を撮影したのは、1944年(昭和19年)11月23日でした。翌年5月19日には指揮兵器部の第一機械工場付近に初めての空襲があり、40余名が犠牲となります。そして8月7日午前10時13分、マリアナ基地を発進したB29爆撃機125機が飛来し、うち124機が投弾しました。投下された500ポンド爆弾は約2,500発におよび、敷地内には直径約8mの爆弾穴が無数に開きました。わずか数十分の爆撃で死者2,500人以上、負傷者1万人以上を数えます。遺体は千両町や市田町の国有地に急造された墓地へ2,385柱が仮埋葬され、1951年(昭和26年)の発掘調査を経てようやく遺族に引き渡されました。約200ヘクタールの跡地は戦後、日本車輌製造やトピー工業などの民間工場、名古屋大学の研究施設、陸上自衛隊豊川駐屯地へと姿を変えていきます。
構内に残る痕跡
陸上自衛隊豊川駐屯地には旧光学部研磨工場が残り、旭メタルズの敷地内には、外壁のコンクリートが剥がれて赤煉瓦が露出した旧機銃部図庫が書庫として使われています。トピー工業の敷地内には旧火工部雷管試験場が社員詰所として現役です。かつての正門は日本車輌製造豊川製作所の正門として補修のうえ引き継がれ、佐奈川に架かる1941年(昭和16年)製の鉄橋と引込み線も同社の専用線として線路を保っています。豊川海軍工廠平和公園には高さ4.45mのコンクリート製街路灯や分厚い土塁、旧火薬庫が保存され、桜ヶ丘ミュージアムは約2,400点の資料を収蔵しています。焼け残った諏訪神社の狛犬と、長栄寺参道の割れた観音像19体も、その日の熱と爆風を刻んだまま境内に並んでいます。
(2026年9月執筆)

現在は子供達の笑顔を包む平和を愛する公園です。
PHOTO:写真AC
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