西古見観測所
- 建物・施設
風待ちの湊が要塞になるまで
奄美大島の南西端にある西古見は、慶安2年(1649年)や元禄9年(1696年)の国絵図に「西之古見湊」として記され、深さ31尋(約56m)を測る風待ちの良港として、薩摩と琉球を結ぶ航路の拠点でした。この地が軍事の場に変わるのは大正期です。1918年(大正7年)の帝国国防方針の改定を受け、陸軍は大島海峡の防衛拠点として奄美大島要塞の建設に着手します。西古見第1砲台の工事が始まったのは1921年(大正10年)9月6日でした。しかし翌年までのワシントン海軍軍縮会議の合意により太平洋の要塞化が禁じられ、工事は中断を余儀なくされます。それでも仮構築物の補修という名目で改築は続き、1932年度(昭和7年度)から1935年度(昭和10年度)にかけて、観測所や火薬支庫、薬莢庫の改築と補強が断続的に進められました。1940年(昭和15年)には28糎榴弾砲4門の配備が正式に決まり、翌年11月には部隊の第2中隊が西古見へ進出しています。
内壁に描かれた島影
観測所は第1と第2の2基が、見晴らしの利く尾根筋に置かれました。いずれも敵艦から見つかりにくいよう山陰の地形を利用して築かれ、平たいスリット状の窓から海峡をうかがう掩蓋構造をとっています。窓の上部の内壁には、加計呂麻島などの島影と方位角が絵図として直接描かれ、目標の方位を素早く割り出せるようにしてありました。中央には測距儀を水平に据えるための台座が残ります。ここで測った敵艦の位置と距離は、電話で砲座へ伝えられました。砲座は直径約6mの円形砲床を厚いコンクリートで囲んだものが4基、そのすぐ横に砲側弾薬庫が2基。資材は海岸の軍桟橋で陸揚げされ、コンクリート敷きの軍道で山上へ運ばれました。
国史跡になるまでの80年
1944年(昭和19年)に徳之島などで飛行場の整備が進むと要塞司令部は事実上解消され、部隊は奄美大島重砲兵連隊へ再編されますが、西古見の観測機能は終戦まで海峡監視の要であり続けました。軍が去った後、頑丈なコンクリートの遺構は一時、移住者や新婚夫婦の住まいとして使われた時期があります。町による本格的な調査が始まるのは平成期の終わりです。2018年(平成30年)12月からの発掘調査で、土砂に埋もれていた砲床や排水機構を備えた砲側弾薬庫の実態が明らかになりました。2022年(令和4年)12月16日、文化審議会は西古見砲台跡を含む3遺跡の国史跡指定を答申し、翌年3月20日の官報告示で瀬戸内町初の国指定史跡となります。2025年(令和7年)9月18日には追加指定が行われ、名称は「奄美大島要塞跡及び大島防備隊跡 附 大島需品支庫跡」へと広がりました。
絶景と落書きのあいだで
第2観測所跡の周辺は公園として整備され、大島海峡と加計呂麻島を一望する展望地として公開されています。指定区域では掘削や建築、樹木の伐採など現状を変更する行為が文化財保護法で規制され、事前の申請と許可が必要です。その第2観測所跡の内壁に落書きが刻まれたとき、瀬戸内町教育委員会は文化財の損壊として警察へ被害届を提出し、原状回復の費用請求を含む手続きをとりました。築80年を超えた遺構には崩落の危険もあり、見学は立ち入り禁止区域を守り、公認ガイドの同行のもとで行うことが求められています。海峡を測るために描かれた島影の絵図は、今もその内壁に残されています。
(2026年9月執筆)

この場所から眺め見る景色は100年前のものとそうは変わらないはずです。
PHOTO:写真AC







