記事【通称】荒尾二造のイメージ画像

【通称】荒尾二造

  • 建物・施設

日本最大級の火薬製造拠点「荒尾二造」の誕生と建設の経緯

1923年(大正12年)に発生した関東大震災により東京の板橋にあった陸軍火薬工場が大打撃を受けたことを契機として、日本陸軍は爆発災害や敵攻撃時のリスクを分散させるため、火薬製造拠点の地方分散計画を推進しました。その中で熊本県荒尾市が選定された理由は、隣接する福岡県大牟田市の石炭化学工業からの主原料調達、三池炭鉱の石炭資源、豊富な工業用水、そして鹿児島本線荒尾駅を通じた小倉造兵廠へのアクセスといった条件が揃っていたためです。1938年(昭和13年)に用地買収が始まり、荒尾市中央部に約300ヘクタールという広大な用地が確保されました。建設現場の統括は関重永氏(当時の陸軍中佐、のち大佐)のもとで進められましたが、関門鉄道トンネル工事による影響や資材・技術者の不足など数々の難航に直面しました。その後、1942年(昭和17年)に「東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所」として正式に開所し、1943年(昭和18年)より本格的な製造が開始されました。


24時間稼働の工場と学徒動員された若者たちの戦時下の記憶

正式な操業を開始した荒尾製造所は、陸軍直営の極めて重要な軍事拠点として24時間体制での火薬生産を行いました。同製造所で生産された黄色火薬(ピクリン酸系)は全陸軍の生産量の約3割を占め、炸薬として使用される茶褐薬(TNT)も約2割を担うなど、日本最大級の爆薬供給基地としての役割を果たしました。製造された火薬は5.2kmの専用鉄道などを通じて小倉造兵廠へ運ばれて兵器化されたほか、毒ガス弾の生産等にも関わっていたとされています。最盛期には旧玉名中学校や高瀬高等女学校(現在の北陵高校)の生徒を含む学徒動員者や徴用工など約3,000人が勤務し、危険と隣り合わせの環境で作業に従事しました。1945年(昭和20年)6月および7月に近隣地域を標的とした空襲が行われましたが、工場自体の被害は各1棟の全焼にとどまり、主要施設はほぼ完形を保ちました。これは戦後の接収や再利用を見越した米軍による温存策があったためとも伝えられています。


解体の危機を乗り越えた遺構と地域市民による保存活動の歩み

終戦後、製造所の敷地は米軍による接収を経て住宅地や農地、学校敷地へと転用され、主要な建物である本部棟や検査掛棟は現在の熊本県立岱志高等学校(旧・荒尾高校)の校舎施設として活用されてきました。しかし、民有地化や売却が進む中で歴史的遺構の解体や滅失の危機が頻発するようになりました。これに対し、2011年(平成23年)1月に「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」等の団体が財務局へ競売中止と保存を求める要望書を提出し、同年6月には「近代化遺産荒尾二造変電所跡等をいかす市民の会」が設立されました。市民団体による現地の測量調査やマップ制作、行政への要請活動などが実を結び、荒尾市が変電所跡をはじめとする貴重な戦跡構造物を自ら取得・管理する体制が確立されました。万一の爆発に備えた重厚な鉄筋コンクリート構造や高大な土塁など、現地には現在も約30基の遺構が残り、歴史の証人として保存されています。


負の歴史を平和への誓いとして未来へ語り継ぐ史実的総括

東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所は、日本の産業や地域における近代化遺産という側面を持つと同時に、戦争協力や化学兵器・炸薬の生産に関わった加害の歴史と空襲による被害の歴史という二面性を併せ持っています。現在では市民グループ等の協力により「東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所 平和資料館」が開設され、貴重な史料の展示や元学徒動員者の証言記録の収集・発信が行われています。現地を巡るフィールドワークやワークショップ、地元の学校教育における地域平和学習など、市民と専門家、行政が一体となった「地域協働の平和学」の実践が続けられています。熊本県内にある723件の戦争遺産の中でも、自治体が直接所有・管理する荒尾二造変電所跡は極めて重要な存在です。戦後世代が当事者に代わって「語り手」となり、負の歴史の教訓を国民共有の文化財として未来へ語り継ぐ取り組みは、平和への誓いを新たにする貴重な足跡となっています。

(2026年9月改筆)

PHOTO:PIXTA

同じ都道府県の記事

同じカテゴリーの記事

ファイナルアクセス会社サイトはこちら

残り日数で探す

記事ランキング※24時間以内

Final Access Books

注目コンテンツ これが最後です

都道府県から探す