函館山砲台跡
- 文化・教育施設
商業港を守るための要塞
日清戦争が終わると、ロシアの東洋艦隊、とりわけウラジオストクを拠点とする艦隊への備えが急がれました。各地に築かれた要塞の多くは、横須賀や呉のような軍港を守るためのものでした。そのなかで函館要塞は、北海道と本州を結ぶ交通と物流の拠点であった民間の商業港、函館港を守ることを目的としていました。津軽海峡を一望する標高334mの函館山が、その場所に選ばれます。1897年(明治30年)に建設の命令が出され、翌年6月に工事が始まりました。山の斜面と尾根に砲台や観測所、弾薬庫が次々と造られ、1902年(明治35年)10月に要塞の大部分が完成します。函館港の入口と津軽海峡を見下ろす山全体が、一つの防御施設として組み上げられたのです。
28門の砲と、三重のアーチ
函館山の砲台には、砲を据える砲座の脇に、兵や弾薬を守る掩蔽部を配するフランス式の築城技術が用いられました。山全体に配された砲は計28門です。御殿山には第一砲台に28cm榴弾砲4門、第二砲台に同じく6門が据えられました。薬師山砲台には15cm臼砲4門が置かれています。最大の規模を持つ千畳敷砲台には28cm榴弾砲6門と15cm臼砲2門が並び、その最南端には各砲台へ射撃の指令を出す戦闘司令所が地下に設けられました。立待岬の近くには、陸からの攻撃に備えて9cmカノン砲4門を備えた立待堡塁が築かれています。重い砲身や資材を山頂へ運び上げるため、山腹には軍用道路が開かれ、沢をまたぐ場所には三重のアーチを持つ石積みの軍用1号橋が架けられました。
地図から消された山
1899年(明治32年)に要塞地帯法が定められると、函館山の一帯は要塞地帯に指定されました。一般の人の立ち入りは禁じられ、写真の撮影や測量、スケッチも許されなくなります。市街地のすぐ背後にそびえる山でありながら、住民にとって函館山は近づくことのできない場所になりました。発行される一般の地図からは、山の地形や施設の記載が消されています。この状態は、1945年(昭和20年)の終戦まで続きました。函館要塞の砲台は、一度も実戦で砲火を交えることのないまま、その役目を終えています。
国有の山に残る砲座
戦後、函館山の土地は国有財産として引き継がれ、現在は函館市に無償で貸し付けられて、都市公園として使われています。長く一般の立ち入りが禁じられていたこともあり、山中の砲台跡は保存状態が良く、砲座や掩蔽部の煉瓦と石積み、運搬のための軍用道路や軍用1号橋が、明治の築城技術を伝える遺構として残っています。夜景の名所として知られる山には、昼に歩くと見えてくるもう一つの姿があります。崩落の危険がある掩蔽部の内部などへの立ち入りには注意が必要ですので、現地の案内に従いながら、砲台跡の残る散策路を訪ねてみてはいかがでしょうか。
(2026年10月執筆)

歴史を今に伝える貴重な史跡です。
PHOTO:写真AC







