読谷村掩体壕
- 建物・施設
村の中央を横切った73万坪
1943年(昭和18年)夏、日本陸軍航空本部は読谷山村の中央部に飛行場を設ける計画を決め、突貫工事が始まりました。陸軍の呼称は沖縄北飛行場。約73万坪、360町歩におよぶ敷地に、長さ2000m級の舗装滑走路が東西と南北に交差する形で2本敷かれる計画で、東洋一と称された規模でした。予算は2300万円。用地は座喜味、喜納、伊良皆、大木、楚辺、上地の6つの字にまたがりました。村役場に突然の買収指令が下り、先祖代々耕されてきたサトウキビ畑が強制的に接収されます。家屋を構えていた78戸は即時の立ち退きを迫られました。工事には地元住民や県内の防衛隊、他地域からの徴用者が集められます。風にサトウキビがなびいていた農村に、削岩の音とダイナマイトの爆破音が終日響くようになりました。
ドラム缶を積んで、型をつくる
設営工事は國場組との契約で進められ、國場幸吉氏が管理責任者として現地を指揮しました。施工監督は陸軍の球9173部隊が担い、現場は5工区に分けられています。掩体壕という語は当時の現場では使われず、コンクリート格納庫と呼ばれていました。地下に掘るのではなく、地表にコンクリートの屋根を架ける構造です。入口はカマボコの切断面のように開き、奥へ向かってすぼまっていきます。鉄筋も資材も足りないなか、とられた方法は独特でした。空のドラム缶を大量に積み上げてアーチ状の骨組みを組み、その上に土を盛ってカマボコ型の土台を成形します。表面にセメント袋の紙を敷き、鉄筋を使わない無筋コンクリートを手作業で流して外殻を固める。硬化したら、中に詰まった土とドラム缶を人力で掘り出して空洞にするのです。誘導路沿いに、こうした格納庫が約10基築かれました。
上陸初日の正午までに
1944年(昭和19年)10月10日の十・十空襲で、完成間もない北飛行場は猛爆撃を受けます。配備されていた戦闘機10機は、離陸前に自爆するか、上空で撃墜されました。1945年(昭和20年)4月1日、米軍が読谷海岸から上陸します。日本軍は首里での持久戦を選び、飛行場に防衛の兵をほとんど置いていませんでした。上陸部隊は本格的な抵抗を受けることなく、その日の正午までに飛行場を制圧します。米軍は日本軍機の残骸を撤去し、ただちに滑走路を修復・拡張して、本土爆撃と補給の前線基地に転用しました。戦後もこの一帯は読谷補助飛行場として接収が続き、パラシュート降下訓練が日常的に行われます。畑と集落があった平坦地は、金網で囲われた軍事区域になりました。
村役場が建つまで、そして一基だけ
返還は長い時間をかけて進みました。1976年(昭和51年)8月に国会で取り上げられ、1982年(昭和57年)5月には地主会が転用計画策定会議を発足させます。1986年(昭和61年)2月7日には中曽根康弘総理大臣が地元の土地利用構想を尊重すると表明しました。1997年(平成9年)3月に新しい村役場庁舎、1999年(平成11年)7月に文化センターが完成します。そして2006年(平成18年)7月31日に138ヘクタール、同年12月31日に残る53ヘクタールが返還され、等価交換を経て農業生産法人の拠点などに生まれ変わりました。十数基あった格納庫は風化と開発で減り、2003年(平成15年)1月末には3基となっていました。読谷村は2009年(平成21年)に座喜味の1基を村指定史跡としましたが、残る2基は翌年に解体されています。陸上競技場や球場、コスモス畑が広がるこの土地で、ドラム缶で型をとられた屋根がひとつだけ残っています。近くに立つ忠魂碑とあわせて、訪ねてみてはいかがでしょうか。
(2026年9月執筆)

戦争当時の緊張感を今に伝える貴重な史跡です。
PHOTO:写真AC







