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旧西原村役場壕

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飛行場と、丘に掘られた横穴

1944年(昭和19年)5月、第32軍の新設にともない、中城湾沿いの小那覇から仲伊保にかけての海岸平地で、陸軍の沖縄東飛行場の建設が始まりました。工事は機械を使わない手作業で、島尻や離島から集められた労務者に加え、村の国民学校の上級生、婦人会、役場の職員までが動員されます。同じ頃、空襲や戦闘で村の行政が止まるのを防ぐため、西原村は字翁長の人夫を数人雇い、役場近くの丘に横穴の壕を掘らせました。6月頃のことです。8月20日には第62師団の歩兵第11大隊、将校と兵士合わせて1200名余りが村に駐屯を始めます。西原国民学校が部隊の本部となり、子どもたちは各字の事務所に分かれて授業を受けました。瓦屋根の民家の一番座には将校が、茅葺きの家には兵士が5、6人ずつ入り、入りきれない兵士は木の下にテントを張りました。役場を通じて味噌やイモが軍へ供出されます。10月10日の空襲では、東飛行場の周辺や我謝の製糖工場、小那覇の民家34戸が爆撃を受けました。

 

毎朝運び出し、夕方しまい込む

壕が掘られたのは、地元でニービと呼ばれる第三紀の砂岩層からなる丘の、南の先端でした。内部は奥行7.5mから8m、幅4.5mから5m、高さ1.8mから2.5mのひと部屋の空間で、天井を支えるために中央に1m角の支柱2本が掘り残されています。出入口は北東側に2か所、幅約90cm、高さ約1.3mで、大人は身をかがめて出入りしました。ここに運び込まれたのは、住民の身分と土地の権利を示す戸籍簿、名寄帳と呼ばれる土地台帳、地籍の図面、兵籍簿です。さらに村の公金、出納簿、戦時債券、公印を収めた重さ約1トンの金庫が、壕の奥に据えられました。職員は毎朝出勤すると壕から書類を運び出して庁舎で仕事をし、夕方になると再び壕へ戻します。この日課は、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)4月まで続けられました。

 

村の半数近くが

米軍は同年4月5日に上原から棚原の線に達し、西原村は首里を守る最前線となります。内間、幸地、呉屋、翁長、小波津などで、日米両軍の激しい砲撃と戦闘が続きました。当時の人口1万881人のうち、亡くなったのは5106人。戦没率46.9%は、県平均の約25%を大きく上回ります。5月15日には、南部へ避難していた小波津正光村長以下約50名の村民が防衛召集で第24師団に入隊させられ、弾薬や食糧を前線へ運ぶなかで、村長も戦場で亡くなりました。翌年4月、収容所から村に戻った住民の前には、家の面影もなく、雑草とススキに覆われた土地が広がっていました。壕に残された書類は1年以上湿気と雨風にさらされ、紙どうしが張りついてめくれなくなっていました。集められた遺骨は役場の横の忠魂碑跡に納められ、1955年(昭和30年)に慰霊塔が建ちます。1968年(昭和43年)に西原の塔と改められました。

 

金庫の扉が出た壕

1985年(昭和60年)、町は壕の発掘調査を行いました。人の頭蓋骨の破片1点、砲弾の薬きょう1点、ジュラルミン製の水筒や容器、スンカンマカイと呼ばれる染付の茶碗や壺屋焼の碗がそれぞれ数十点、そして壕に置かれていた金庫の扉1点が出土しています。1980年代には土取りのために道路側の壁が削られ、壕は今、本来の北東の出入口ではなく、道路に向かって口を開けた姿になっています。2015年(平成27年)6月9日、旧西原村役場壕は町の史跡に指定されました。隣には西原の塔が立っています。住民の記録を毎日運び出してはしまい込んだ横穴を、西原町字翁長に訪ねてみてはいかがでしょうか。

(2026年9月執筆)

PHOTO:写真AC

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