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赤山地下壕

  • 建物・施設

震災の隆起地に築かれた地下要塞 ― 赤山地下壕、掘削の記録

1923年(大正12年)の関東大震災による地殻変動で館山湾の海底が隆起し、この浅瀬を埋め立てる形で海軍航空隊の飛行場建設計画が始まりました。1930年(昭和5年)、館山海軍航空隊が正式に開隊されると、東京湾の入口を守る防備拠点としての歩みが始まります。近隣住民の証言によれば、赤山地下壕は1941年(昭和16年)の対米開戦よりも前から、周囲に知られぬよう極秘に掘削が開始されていたとされ、大量の残土はトロッコで海岸へ運ばれ、基地拡張の埋め立てに使われました。海軍による公式な計画書や設計図は残されていませんが、戦後発見された防衛庁防衛研究所所蔵の図面『館山航空基地次期戦備施設計画位置図』には、「自力発電所」「工作科格納庫」「応急治療所」などの施設名が記されており、空襲下でも基地機能を維持するための計画であったことがわかります。戦争末期には、本土決戦に備えた追加の掘削がさらに進められました。


ツルハシが刻んだ、格子状の坑道

地下壕が掘られたのは、標高約60メートルの凝灰質砂岩の岩山「赤山」でした。この砂岩は非常にもろく、ダイナマイトの衝撃で山全体が自壊する恐れがあったため、兵士たちはツルハシによる手掘りで掘削を進め、壁面には今もその打痕が残されています。坑道は並行する3本の主通路と、それらを網の目状に結ぶ連絡通路から成る複雑な構造をしており、天井は高さ2〜4メートルのアーチ状に掘られ、「自力発電所」の防護壁には岩盤崩落の衝撃を逃がすための空気層と金属メッシュが用いられていました。現在確認されている長さは約1.6キロメートルにおよびます。終戦後、館山地区は米軍に占領され、地下壕を含む軍事施設も接収されました。


40年間、地下に住み続けたキノコ研究者

戦後、地下壕は長らく立ち入り禁止のまま放置されていましたが、1960年代、かつて「731部隊」に所属していたとされる茨城県出身の元研究者が壕内に住み着き、種菌研究所の看板を掲げてキノコの研究生活を始めました。年間を通じて温度と湿度が一定に保たれる壕内の環境は、キノコの菌糸培養に適していたといいます。この研究者は2001年(平成13年)に世を去るまでの約40年間、地下での生活を続けました。1990年代初頭、平和教材を探していた地元の高校の社会科教師が地下壕を訪れこの人物と出会ったことが、後の保存活動につながっています。


戦跡調査から一般公開へ

1995年(平成7年)を機に、この教師らによる市民の戦跡調査運動が始まり、2002年(平成14年)には館山市による地下壕内部の調査が行われました。2004年(平成16年)4月には、全長1.6キロメートルのうち約250メートルの区間が一般公開されています。

(2026年8月執筆)

PHOTO:写真AC

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