栗子隧道
- 建物・施設
「鬼県令」が拓いた道 ― 栗子隧道、開削の記録
1876年(明治9年)、鶴岡県・山形県・置賜県の統合により誕生した山形県の初代県令として、三島通庸が着任しました。三島は交通網の整備を最優先課題とし、山形から米沢、福島を経て東京を結ぶ新道の建設を計画します。オランダ人技師エッセルが招かれ、山形県土木課長・高木秀明が実務を担いました。着工時期については、地元米沢市の記録では1876年(明治9年)12月とされる一方、1878年(明治11年)1月とする資料もあり、諸説あります。世界にまだ3台(あるいは3台目)しかなかったとされるアメリカ製蒸気式削岩機が導入され、山形県側(西口)で稼働する一方、福島県側(東口)では従来のノミと火薬による手掘りが進められました。山形県側だけで総工費は約13万円に達し、うち約95,000円は地元負担、国費補助約32,000円、有志の寄付2,000円、延べ15,000人の勤労奉仕によって工事が支えられました。この過酷な負担から、三島は地元で「鬼県令」と呼ばれています。
貫通の夜と、明治天皇が歩いたトンネル
1880年(明治13年)10月19日未明、山形側から約470メートル、福島側から約400メートルの地点で坑道が貫通しました。翌1881年(明治14年)10月3日、東北巡幸中の明治天皇を迎えて開通式が行われ、天皇はトンネル西口で輿を降り、全長約870メートル(資料により864〜876メートルと幅がある)のトンネルを自らの足で歩いて渡りました。この道には「萬世大路」の名が贈られています。開通式では、洋画家・高橋由一氏が描いた「栗子山隧道図」をはじめとする記念の油絵が飾られました。
鉄道の時代を経て、コンクリートの二代目へ
1899年(明治32年)の奥羽本線開通により、万世大路の往来は一時衰退しましたが、自動車の普及にともない、1933年(昭和8年)、内務省仙台土木出張所による「国道5号万世大路改良工事」が着工されました。1936年(昭和11年)にトンネル自体の改修が完了し、翌1937年(昭和12年)3月に道路全体が開通、素掘りだった隧道はコンクリートで巻き立てられて「栗子隧道」と改称されています。
冬の通行止めを越えて、三代目の東西トンネルへ
二代目の道路も冬季は約5か月間通行止めとなる課題を抱えていました。1957年(昭和32年)からの調査を経て、1963年度(昭和38年度)に東栗子トンネル(2,376メートル)と西栗子トンネル(2,675メートル)の工事が始まり、1966年(昭和41年)5月29日、全長11.6キロメートルの新道が全線開通し、通年通行が可能になりました。役目を終えた初代・二代目の隧道は、落盤により閉塞しています。現在、明治と昭和それぞれの時代に築かれた2つの坑口が並んで残り、近代化産業遺産および土木学会の選奨土木遺産に認定されています。
(2026年8月執筆)
PHOTO:PIXTA







