川東掩体壕
- 建物・施設
大隅半島に築かれた海軍航空基地 ― 笠野原基地と鹿屋の歴史
太平洋戦争期、現在の鹿児島県鹿屋市域には「鹿屋」「串良」、そして「笠野原(かさのはら)」という3つの海軍航空基地が存在していました。笠野原飛行場は、大正11年(1922年)に大刀洗陸軍飛行場(福岡県)と連携する民間飛行場として誕生した歴史を持ちます。その後、軍用飛行場として大規模に拡充が進み、昭和16年(1941年)の市制施行を経て、南九州における重要な航空拠点となっていきました。
米軍機から機体を守った、川東の掩体壕
戦局が悪化した太平洋戦争末期、敵機の爆撃から航空機や物資を保護するため、防空シェルターであるコンクリート製の「掩体壕(えんたいごう)」が築かれました。笠野原基地の東側にあたる川東地区(鹿屋市川東町)に建設された「川東掩体壕」は、資材不足の中で強度を得る「かまぼこ型」の構造をしています。内部は零戦(零式艦上戦闘機)1機がちょうど収まる規模で、上部に盛土をして芝や草を植えるカモフラージュが施されていました。出撃時には、薄暗い掩体壕から整備兵たちが人力で重い機体を押して滑走路まで移動させていました。当時、笠野原基地周辺には約200基(コンクリート製は7基ほど)の掩体壕が存在したとされますが、戦後の開墾や開発によって大半が消滅し、市内で唯一ほぼ完全な形で現存するのがこの川東掩体壕です。
特攻の出撃基地としての記録
昭和20年(1945年)3月以降、沖縄戦の本格化に伴い、鹿屋市域の基地群は日本最大の特攻出撃拠点となりました。全国から若き隊員が集結し、鹿屋海軍航空基地から908名、串良海軍航空基地から363名の特攻隊員が沖縄の空へ飛び立ちました。笠野原基地でも激しい空襲を受ける中、出撃機の整備や防空作業が連日続けられていました。
戦後の保存と、平和への継承
終戦後、笠野原基地の滑走路跡は農地や住宅地へ払い下げられました。一方、旧鹿屋基地の跡地は海上自衛隊鹿屋航空基地として引き継がれ、今も運用されています。田園風景の中に残る川東掩体壕は、戦争の実態を伝える貴重な戦争遺跡として、平成27年(2015年)6月26日に「鹿屋市指定文化財(記念物)」に指定されました。現在は見学用駐車場が整備され、自由に遺構を訪ねられるよう保存活動が進められています。また、近隣の鹿屋航空基地史料館では、復元された零戦五二型や二式大型飛行艇、特攻隊員の遺影・遺書が展示されており、当時の歴史と平和の尊さを今に伝えています。
(2026年9月執筆)
PHOTO:写真AC







