宇佐海軍航空隊 掩体壕
- 建物・施設
11分間に136トン
宇佐海軍航空隊は1939年(昭和14年)10月1日、艦上攻撃機と艦上爆撃機の搭乗員を育てる練習航空隊として開隊しました。柳ヶ浦地区を中心に東西約1.2km、南北約1.3km、約184ヘクタールの敷地が広がり、開隊当初の所属は約800名でした。空母への配属を見据えた飛行訓練が重ねられ、爆撃精度を高めるためのコンクリート製の標的が宮熊の沖合に設置されています。1945年(昭和20年)3月1日、組織は教育訓練の部隊から実戦の作戦部隊へ改編されました。同月18日には最初の空襲を受けます。そして4月21日、B29が飛来し、11分間に136トンを超える爆弾を投下しました。この一日で基地関係者320名が亡くなっています。爆撃で生じた窪地に水が溜まったものが、今も残る爆弾池です。宇佐からは特攻機として102機が出撃し、81機が未帰還となり、154名が戦死しました。
土をかぶせても、写真には写っていた
航空機を空襲から守るために築かれたのが掩体壕です。市内には屋根のあるコンクリート製の有蓋掩体壕が10基、土盛りと木材で機体を隠した無蓋掩体壕が1基、合わせて11基が残っています。代表的な城井1号掩体壕は1944年(昭和19年)8月頃から築造され、幅21.6m、奥行14.6m、高さ5.4m。前半部分は型枠にコンクリートを流し込んで成形し、後半部分は土盛りの上に直接流して固めるという、前後で異なる工法がとられました。一式陸上攻撃機などを収める中型掩体壕は高さ9m、幅43m、奥行23mに達し、国内最大級とされます。11基は開口部の向きがすべて異なっています。爆風や直撃で一度に失わないための配置です。屋根には土を盛って植物を生やし、上空から隠す工夫もされましたが、米軍の空中写真にはその姿がはっきりと捉えられていました。
滑走路は道になった
終戦とともに、幅80m、長さ1800mの滑走路をはじめ基地の施設は解体され、開拓を経て一帯は田畑に戻りました。滑走路があった直線の跡地には現在、市道フラワーロード2号線が通り、見送る人を表したモニュメントとハナミズキが並んでいます。一方で、失われなかったものもあります。レンガ造りの落下傘整備所の外壁には機銃掃射の痕が残り、受信所とされる耐弾式コンクリート建物は壁の厚さが45cmあります。発動機試運転場の内部には、エンジン試運転用のコンクリート台座4基と、天井を走っていたクレーンのレール痕が残されています。柳ヶ浦小学校の敷地には、機銃掃射を受けたレンガ壁と爆風で折れた顕彰碑、そして爆撃に耐えた柳の木があります。
田園に残る、飛行機の形の屋根
終戦から50年となる1995年(平成7年)3月28日、城井1号掩体壕は宇佐市の史跡に指定され、平和祈念公園として整備されました。内部には国東半島沖の海底から引き揚げられた零式艦上戦闘機のエンジンとプロペラが展示されています。広場には154名の特攻隊員の名を刻む石碑と鎮魂碑が置かれ、毎年8月15日に「平和のともしび」の行事が行われます。宇佐市は点在する遺構を面として結ぶフィールドミュージアム構想を掲げ、段階的な公有化と保存整備を進めています。拠点施設の宇佐空の郷は旧本部庁舎をモチーフに建てられ、実物の門柱1基が館内に展示されています。飛行場そのものは田畑の下に消え、機体を覆うために築かれた屋根だけが田園のなかに残りました。その開口部が向いている先を、確かめに訪ねてみてはいかがでしょうか。
(2026年9月執筆)

左の土盛りと右のコンクリートの対比が、前後で異なる工法を示しています。
PHOTO:PIXTA







