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北洋館

  • 建物・施設

陸奥湾の奥に開かれた軍港

1902年(明治35年)8月1日、横須賀鎮守府の管轄のもとで大湊水雷団が開庁しました。場所は陸奥湾の最も奥、下北半島の付け根にあたる大湊です。湾内には芦崎の砂嘴が鳥のくちばしのように弧を描いて伸び、荒波を遮る天然の良港をなしていました。津軽海峡と宗谷海峡を見据える北方防衛の拠点として、ここが選ばれます。2年後の日露戦争では、艦艇の補給と警備の拠点としての役割が一気に高まりました。戦争が終わった1905年(明治38年)12月12日、組織は大湊要港部へ昇格し、青森県以北の北洋海域の警備と防衛を担うことになります。1933年(昭和8年)には大湊海軍航空隊が開設され、海と空の双方から北を見張る体制が整いました。そして太平洋戦争の開戦直前、1941年(昭和16年)11月20日、北方作戦の司令部と補給の拠点として大湊警備府へ格上げされます。

 

軍艦と官舎に水を送った堰堤

軍港には水が要りました。1910年(明治43年)、宇田川をせき止めて大湊第一水源地堰堤が竣工します。日本で初めての西洋式アーチダムとされ、標高46mの位置に約5000トンの水をたたえて、艦船と官舎へ1日1200立方mの水を送り出しました。銘板には、横須賀鎮守府建築科長の海軍技師、桜井小太郎氏らの名が刻まれています。現地には主任海軍技師の伊藤誠吉氏や海軍技手の鈴木定次郎氏らが足を運び、設計を指揮しました。300mmから360mm角の間知石をモルタルで精密に積み上げるため、九州から石工の一団が招かれています。堰堤の天端には櫛形のアーチが並ぶ溢流口があり、そこから白い水の膜が筋をなして落ちます。赤い木造の上屋を載せた取水塔が、背後の杉林に映えています。昭和50年代には埋め立ての計画が持ち上がりましたが、八戸工業大学の高島成侑氏、文化財建造物保存技術協会の永川強氏、東京大学の村松貞次郎氏らによる緊急の調査と説得により、入札の直前で保存が決まりました。

 

警備府から地方隊へ

1945年(昭和20年)8月、終戦の直前に大湊は空襲を受けます。終戦とともに警備府は解体され、進駐軍による接収を経験しました。海の防衛拠点として再び動き出したのは1953年(昭和28年)9月16日、保安庁警備隊の大湊地方隊が発足したときです。翌年の自衛隊発足にともない海上自衛隊へ移管されました。2025年(令和7年)3月24日には、横須賀地方隊への統合によって大湊地区隊へ再編されています。基地とともに歩んできたまちの暮らしも続いています。夏の大湊ネブタには毎年多くの隊員が担ぎ手として加わり、旧海軍の艦艇で親しまれたレシピを再現した大湊海軍コロッケは、街の味として受け継がれています。2014年(平成26年)12月1日には、隊員が災害派遣や遠洋航海で家を空ける際に家族を地域で支える「隊員家族あんしん協定」が結ばれました。

 

水源地、官舎、そして北洋館

大湊には、海軍の時代の建物がいくつも残っています。旧大湊水源地水道施設は、1984年(昭和59年)のむつ市指定、1993年(平成5年)の青森県重宝の指定、2001年(平成13年)の選奨土木遺産の選定を経て、国の重要文化財となりました。旧大湊要港部乙第10号・11号官舎は、釜臥山から切り出した石で建てられた将校の住宅で、市の有形文化財に指定されています。旧大湊ホテルの木造洋風建築は、鈴木誠作記念館として同じく市の指定を受けています。そして旧大湊要港部会議所の建物は、北洋館として史料を公開しています。こちらは国、県、市のいずれの文化財にも指定されていませんが、史料館として使われ続けています。冬の陸奥湾には県の天然記念物である白鳥が舞い降り、灰色の艦艇のそばで羽を休めます。120年を超える軍港の歩みを伝える建物を、めぐってみてはいかがでしょうか。

 

(2026年9月執筆)

PHOTO:写真AC

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