琴電屋島駅舎 解体
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鉄路の夜明けと、現駅舎の誕生 ― 琴電屋島駅の歩み
1910年(明治43年)5月1日、東讃電気軌道株式会社が設立され、1911年(明治44年)11月18日、今橋から志度までの12.1キロメートルが開通しました。初代「屋島駅」は、一般に現在地から360メートルほど西側に置かれていたとされています。1916年(大正5年)12月25日、東讃電気軌道は四国水力電気株式会社に合併され、1925年(大正14年)には、国鉄高徳線に同名の「屋島駅」が開業したことを受け、「屋島登山口駅」へと改称されました。転機となったのは1929年(昭和4年)4月21日で、系列会社「屋島登山鉄道」による屋島神社前から屋島南嶺を結ぶケーブルカーの開通に合わせ、駅は現在地へ移設されます。この時新築されたのが現駅舎で、モダンデザインの影響を受けた瀟洒な住宅を思わせる洋風の外観が特徴的な建物でした。
戦禍を免れた駅舎と、屋島観光の黄金期
1942年(昭和17年)4月3日、電力会社統合の国策により鉄道部門が独立して「讃岐電鉄株式会社」となり、1943年(昭和18年)11月1日には讃岐電鉄・高松電気軌道・琴平電鉄の3社統合により「高松琴平電気鉄道(ことでん)」が誕生しました。1944年(昭和19年)には戦時の金属供出により屋島登山鉄道(屋島ケーブル)が運行休止に追い込まれ、1945年(昭和20年)7月4日の高松大空襲では市街地が焼け野原となる中、この駅舎は焼失を免れています。戦後の1950年(昭和25年)、屋島ケーブルの運行再開に合わせて「琴電屋島駅」へと改称されました。昭和期には社寺参詣や海水浴などに端を発する大衆観光旅行の隆盛を背景に、駅は多くの観光客で賑わったと伝えられています。
無人化から近代化産業遺産の認定へ
1970年代以降のモータリゼーションの進展により乗降客数は減少に転じ、1986年(昭和61年)4月にはことでんのバス部門が分離されました。2001年(平成13年)12月7日、ことでんは民事再生法の適用を申請しましたが、2002年(平成14年)8月8日開始の「ことでん100計画」により再建が図られます。2004年(平成16年)10月16日、屋島ケーブルが営業休止(翌2005年に廃止)となり、駅は連絡駅としての役割を終えました。その後、駅は無人化され、2005年(平成17年)2月2日に導入されていたICカード「IruCa」のタッチ端末が、レトロな木造駅舎に現代の風景を添えることとなります。2009年(平成21年)2月23日、駅舎は経済産業省の「平成20年度 近代化産業遺産群 続33」において、車両3両・施設9箇所とともに近代化産業遺産に認定されました。
台風被害と、解体という決断
2026年6月、香川県付近を通過した台風6号の強風雨により、駅舎は構造部分に損傷を受けました。ことでんによる安全性調査の結果、2026年8月28日、駅舎の解体が正式に発表されています。解体工事は同年9月1日から10月31日までの約2か月間の日程で実施され、工事期間中はプラットホームへの立ち入りを確保するための仮設通路が設置されます。1929年の新築から約100年近くにわたり、この駅舎は高松の街の風景の一部として、旅人と住民の出会いと別れを見守り続けてきました。
(2026年8月執筆)
PHOTO:写真AC







