明智駅 鉄道駅としての廃駅か
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中山道の停車場から、明智駅へ
1912年(大正元年)、多治見から御嵩を結ぶ路線の敷設許可が下り、東濃地方の交通網に近代化の光がもたらされました。1918年(大正7年)に多治見から広見駅までの区間で運行が始まり、1920年(大正9年)8月21日には広見から御嵩(現・御嵩口駅)までの延伸に伴い、中山道沿いの小さな停車場「伏見口駅」が開業します。1928年(昭和3年)には運行を担う「東美鉄道」が設立されましたが、1943年(昭和18年)に名古屋鉄道へ吸収合併され、現在の名鉄広見線の骨格が形成されました。1982年(昭和57年)、可児市の市制施行を契機に、伏見口駅は戦国武将・明智光秀のロマンを地域に定着させるため「明智駅」へと改称されました。
光秀伝説を宿す、明智城跡の物語
明智駅の背後にそびえる丘陵は「明智城跡」と呼ばれています。明智光秀の生誕・居住地とされる場所は岐阜県内に2か所あり、戦前から知られる恵那市明智町に対し、可児市瀬田の明智城跡は1972年(昭和47年)に地元の郷土史家グループによって「発見」されたものです。翌1973年(昭和48年)には「六親眷属幽魂塔」と刻まれた石塔が出土し、落城の戦死者を弔う塔と解釈されましたが、後年の研究では江戸時代のキセルが同時に出土したことから、近世以降のものである可能性が指摘されています。江戸時代の『美濃国諸旧記』には、暦応5年(1342年)に明智頼兼が長山に城を築き、弘治2年(1556年)の合戦で落城したと記されていますが、当時の一次史料に明智城の記録はありません。1931年(昭和6年)の郷土教材『廣見読本』が瀬田の井戸を「光秀産湯の井戸」と記載したことが、この地を光秀生誕地として語り継ぐ始まりとなりました。
八百津線の分岐と、記念の日々
1984年(昭和59年)からは明智駅を分岐点に八百津線でレールバスの運行が始まりましたが、2001年(平成13年)に乗客減少で全線廃止となりました。2003年(平成15年)には名古屋・犬山方面への直通列車も廃止され、新可児〜御嵩間を往復するローカルな運行体制となります。2008年(平成20年)にはワンマン運転が始まり、明智駅を含む沿線駅は無人化されました。開業からちょうど100年を迎えた2020年(令和2年)8月21日には、住民有志による自主制作映画の制作や七夕飾りの展示、特別展など、さまざまな記念事業が行われました。無人化後の2022年度(令和4年度)調査でも、明智駅の1日平均乗降客数は701人と、地域の重要拠点であり続けています。
109年の鉄路に、幕を下ろす日
名古屋鉄道は2026年(令和8年)8月3日、新可児〜御嵩間7.4キロを2029年(令和11年)4月1日付で廃止すると正式に決定しました。実質的な最終運行は2029年3月31日となり、1920年の開業から109年にわたる鉄路の歴史が幕を閉じます。長らく東濃高等学校をはじめとする沿線の高校生たちの通学の足であり続けた明智駅もまた、廃駅としてその役目を終えることになります。中山道の停車場として生まれ、光秀伝説とともに歩んできたこの駅の記憶は、地域の人々の中に静かに残り続けることでしょう。
(2026年8月執筆)







