Final 2027年3月31日 記事【函館本線】 赤井川駅 廃駅かのイメージ画像 History 123年

【函館本線】 赤井川駅 廃駅か

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赤い川のほとりに生まれた山あいの駅

赤井川という地名は、アイヌ語の「フレ・ペッ(赤い川)」を日本語に置き換えたものとされ、駒ヶ岳の裾野から流れる川の水が赤く濁って見えたことに由来すると伝えられています。後志地方の余市郡赤井川村とは別の土地で、森町の南部、駒ヶ岳の南西の裾野に広がる山あいの地区です。原生林に覆われていたこの一帯に開拓民が入植し、森を切り開いて集落の基礎を築きました。
この地に線路を通したのは、函館と小樽を結ぶ幹線の建設を進めた私鉄の北海道鉄道です。函館から森へ向けて路線を延ばす途上で、1904年(明治37年)10月15日に赤井川駅が開業しました。仮乗降場から昇格した駅ではなく、当初から旅客と貨物の双方を扱う一般駅として設けられ、山で切り出される産物を送り出す役割を担いました。開業から3年後には鉄道国有法によって国に買収され、のちに函館本線の一駅として位置付けられました。


炭焼きの煙と駅員がいた日々

昭和の初めから戦後しばらくの間、駒ヶ岳山麓の自然林では木材の伐採と炭焼きが盛んに行われ、地域の暮らしを支える産業となっていました。山から切り出された木材や焼き上がった薪炭は、馬そりやトラックで駅へ運ばれ、貨車に積み込まれて各地へ送り出されました。駅には国鉄の駅員が常駐し、炭焼きに携わる人々や木材業者、住民、駒ヶ岳を目指す登山客が行き交っていたと、鉄道史の記録などは伝えています。
この地域は活火山とともにある土地でもあり、1929年(昭和4年)の駒ヶ岳の大噴火では周辺に広く火山灰が降りました。やがてトラック輸送の普及とともに貨物の扱いは昭和30年代半ばに終わり、1972年(昭和47年)には荷物の扱いも廃止されて駅は無人になりました。『森町史』などは、無人化が地域の暮らしに影響を及ぼしたことを記録しています。駅員の去った事務室は、のちの駅舎改築の際に保線作業員の詰所へと改められました。


1日3人の駅に寄せられた存続の声

道路網の整備が進むにつれ、住民の移動手段は自家用車や路線バス、森町のコミュニティバスへと移り、駅の利用は細っていきました。近年の5年間の1日平均乗車人数は3人です。JR北海道は利用の少ない駅を順次廃止しており、今春には同じ函館本線の仁山駅と二股駅が姿を消しました。赤井川駅についても、町によると、前年の秋ごろにはJR北海道から廃止候補に挙がっているとの連絡があったといい、2026年(令和8年)5月の町議会全員協議会でその内容が公表されました。町は地域住民の生活路線を確保するため、現状のままの存続を求める要望書をJR北海道に提出しました。地元紙は、町が地元町内会と行った意見交換で、観光客などの利用を指摘する声や、運転免許を返納した後の足として残してほしいという声が上がったと伝えています。一方、存続には町が年間500万〜600万円の維持費を負担する必要があり、町は厳しい財政状況などから全額負担での存続は難しいとの立場を示していました。


駒ヶ岳のふもとで迎える120年余りの節目

2026年(令和8年)10月末、赤井川駅の廃止の方針が固まりました。2027年(令和9年)3月のダイヤ改正をもって、旅客駅としての120年余りの歴史に幕を下ろす見通しです。列車の行き違い設備を備えた駅であることから、廃止後も信号場として線路設備が残る可能性が指摘されています。木材や薪炭を送り出し、山あいの暮らしを支えてきたこの駅は、開拓に力を尽くした人々、駅を守った駅員や保線作業員、そして存続を願った住民とともに歩んできました。最後の列車が通り過ぎる前に、駒ヶ岳を仰ぐ小さな駅に降り立ってみてはいかがでしょうか。

                        (2026年11月執筆)

冬の赤井川駅。雪をかぶった駅舎は1987年に改築されたものです。

 

夏の赤井川駅。ホームの先、構内踏切を渡ると駅舎があります。

PHOTO:写真AC

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