羽後町立軽井沢小学校 閉校
- 文化・教育施設
阿部太郎吉宅の一室から
この地域の初等教育は、民家の一室から始まりました。1882年(明治15年)11月、軽井沢除野の阿部太郎吉氏宅に田代小学校巡回授業所が置かれたのが、記録に残る最初です。学制が敷かれても校舎はまだなく、教師が地区を回って授業を行う形でした。1889年(明治22年)4月には町村制の施行により、田代村、上到米村、軽井沢村の3村が合併して田代村が発足します。そして1907年(明治40年)、軽井沢小学校が独立した教育拠点として創設されました。巡回授業所の開設から25年を経て、この地区は自分たちの学校を持つことになったのです。
学校が立っていた場所
学校を取り巻く環境は厳しいものでした。開設に先立つ1877年(明治10年)10月にはコレラが大流行し、1886年(明治19年)8月21日には猛烈な暴風が建物や立木に被害を与え、同月にコレラが再発しています。1894年(明治27年)8月25日の大洪水では元西地区で43戸が流失し、22名が亡くなりました。1897年(明治30年)の洪水と虫害による凶作を受け、翌年には役場から「正月なし」の通達が出るほど農家は困窮します。小学校が開設された1907年(明治40年)頃には、牛馬で田畑を耕す馬耕が町内に普及し始め、農作業の風景が変わりつつありました。それでも1911年(明治44年)8月には赤痢の流行と稲熱病による大凶作が重なり、北海道への出稼ぎが相次いでいます。
分校を閉じ、新校舎を建てる
時代が下ると、学校の再編が地域を動かします。1992年(平成4年)4月、高瀬中学校の校舎完成にともない、軽井沢、田代、仙道の3つの中学校が対等統合されて高瀬中学校が開校しました。中学校が先に統合された形です。小学校では1994年(平成6年)3月に軽井沢小学校の蒐沢分校が廃校となり、その翌年の1995年(平成7年)11月に本校の新校舎が完成します。分校を閉じた直後に新しい校舎が建つという順序が、児童数の変化を映しています。そして2004年(平成16年)3月、軽井沢小学校は田代小学校、上到米小学校とともに閉校しました。122年前に巡回授業所として始まった歩みが、ここで校名としては終わります。
校名は消え、校舎は残った
ただし建物は使われ続けました。2004年(平成16年)4月、3校が統合して新設された田代小学校の校舎として、旧軽井沢小学校の建物がそのまま充てられたのです。完成から9年しか経っていない校舎でした。この校舎で学校が続いたのは12年です。2015年(平成27年)10月に閉校記念式典が行われ、2016年(平成28年)3月に田代小学校は閉校。同年4月、仙道小学校との統合により高瀬小学校が開校し、この地域の小学校機能は集約されました。軽井沢小学校としての校名は2004年に、校舎としての役目は2016年に終わったことになります。閉校後の建物の状況は公式の記録では確認できません。134年にわたって学校が続いた場所を、訪ねてみてはいかがでしょうか。
(2026年9月執筆)

確かにここに学び舎が存在した。その証です。

卒業生・先生・地域住民など関係者様の心の中に、美しい思い出が永遠に記憶されますように。
PHOTO: 廃校5000 様







