羽後町立元西小学校 閉校
- 文化・教育施設
七度、名を変えた学校
この学校が開いたのは1880年(明治13年)5月、校名は「元城学校」でした。以後、校名は地域の制度とともに何度も変わります。1882年(明治15年)1月に西馬音内小学校元城分校となり、1885年(明治18年)4月には西馬音内堀回尋常小学校と改称して飯沢地区に分校を設けました。1889年(明治22年)4月に元城簡易学校、1920年(大正9年)4月に元西馬音内尋常小学校、そして戦後の1946年(昭和21年)4月に元西馬音内小学校となります。羽後町立元西小学校の名になったのは1955年(昭和30年)4月です。西馬音内町や元西馬音内村を含む一町六村が合併して羽後町が発足し、初代町長に菊池時之助氏が就いた年でした。校名の変遷はそのまま、この地域の行政区画の変遷でもあります。
正門は、城の大手門の跡
学校が建っていたのは、ただの丘ではありませんでした。所在地の西馬音内堀回字浦田山29は、中世の山城である西馬音内城跡に重なります。別名は川名池城。室町から戦国期にかけて雄勝地方を治めた小野寺氏の城で、堀回の周辺は古くから元西馬音内と呼ばれた本来の中心地でした。学校の入り口付近には「小野寺家大手門址」と刻まれた石碑が置かれています。児童が毎日くぐった正門は、城の正面玄関の跡だったのです。校舎の背後には浦田山、世の沢山の一部、舘坂が連なり、遺構は23ヘクタールにおよびます。裏山の登城路には十三森と呼ばれる13の塚があり、その先には櫓跡の土台、三の丸の土塁、堀切が残ります。矢島城主の大井五郎満安氏が自刃したと伝わる地や、落城の際に銀の茶釜を投げ込んだという本丸の井戸の伝説も語られてきました。毎年7月には、地元の住民が本丸へ続く山道の草刈りを行っています。
四度、校舎が動いた
校舎も動き続けました。1883年(明治16年)6月に元城41番地へ移り、1904年(明治37年)8月には堀回字関ノ口70の1に木造の新校舎を落成して移転します。1920年(大正9年)12月には2階部分と体操場が増築されました。1951年(昭和26年)1月に大改修が完了。1975年(昭和50年)の夏には、町内の中学校統合で空いた旧元西中学校の校舎へ移ります。この地域は雪の重さが建物を壊す土地でもあり、1960年(昭和35年)2月には元西中学校の雨天体操場が積雪で倒壊した記録が残っています。1977年(昭和52年)12月に新校舎が落成し、竣工式が行われました。1980年(昭和55年)8月には創立百周年の記念式典が挙行され、校庭に記念庭園が造られます。1998年(平成10年)11月には体育館が改築され、遊具も新設されました。
135年の歩みと、石碑の増えた敷地
2005年(平成17年)4月、飯沢小学校を統合し、児童数82名の新生元西小として再出発します。しかし10年後の2015年(平成27年)10月31日に閉校式典が挙行され、敷地に閉校記念碑が建立されました。2016年(平成28年)3月、135年の歴史に幕が下ります。閉校記念誌『蓬来橋』が刊行され、同年4月、旧西馬音内小学校との対等統合により新しい羽後町立西馬音内小学校が開校しました。開校式典は4月22日でした。敷地には今、大手門址の石碑と閉校記念碑が並んで立っています。中世の城と近代の学校、二つの時代の記念が同じ場所にあるということです。裏山の登城路とあわせて、訪ねてみてはいかがでしょうか。
(2026年9月執筆)







