記事まんだら堂やぐら群のイメージ画像

まんだら堂やぐら群

  • 文化・教育施設

150の穴が並ぶ斜面

1180年(治承4年)に源頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、南を海、三方を険しい山に囲まれた要害の地でした。その山を掘り下げて通したのが鎌倉七口で、名越切通もその一つです。13世紀前半に執権北条氏の権勢が固まると、人と物の往来のために切通が順次整えられました。名越切通は鎌倉から三浦半島や浦賀方面を結ぶ要路で、『吾妻鏡』の天福元年(1233年)8月18日条に「名越坂」として初めて記録されています。この道沿いの崖面に、幅と奥行きがともに2mほどの横穴が150穴以上も掘られています。上下左右に重なり合ってひな壇のように連なる、鎌倉と逗子の地域で最大級の墓所遺構です。出土遺物から、平場の造成と掘削が始まったのは13世紀末頃と分かっています。納骨と供養は15世紀いっぱいまで、約200年にわたって続きました。「まんだら堂」の名が史料に現れるのは1594年(文禄3年)、太閤検地の検地帳に畠の地名として記されたものが最初です。堂そのものの様式や建立の時期、廃絶の経緯は分かっていません。

 

頭蓋骨が語りかけるもの

やぐらの内部には、供養と納骨のための五輪塔が並んでいました。現在見られる石塔の多くは、後世に位置を動かされたものです。当初ここに葬られたのは武士や密教寺院の僧侶といった上層の人々でしたが、やがて経済力を高めた商工業者も祀られるようになります。周辺の平場では、長方形に掘り抜かれた火葬の痕跡も見つかっています。2006年度(平成18年度)の調査では、尾根上の岩盤をコの字形に掘り窪め、中央に切石を敷いた石塔の基礎とみられる遺構が発見されました。その西側の土坑からは、斬首されたと推定される頭蓋骨が1個出土しています。処刑された人物を弔う施設であった可能性が指摘されています。これだけの掘削を可能にしたのは岩盤の性質でした。この一帯は新第三紀三浦層群にあたり、尾根側に分布する池子層は軽石を含む比較的硬質な岩で、風化に強く横穴が崩れにくい。やぐらを掘るのに適した岩質だったのです。

 

発掘が書き換えた風景

一方で、発掘は従来の理解を修正してきました。「お猿畠の大切岸」は長く、三浦一族の攻撃に備えて鎌倉幕府が急造した防衛陣地と説明されてきました。しかし2002年度(平成14年度)の調査で、これが建築用の石材を切り出した跡に残った大規模な石切り場であることが実証されます。堆積土砂の上層から1707年(宝永4年)の富士山噴火による火山灰層が見つかり、作業が江戸時代中期以前に行われていたことも確かめられました。切通の道そのものも同様です。2000年度(平成12年度)のトレンチ調査では、現路面の下60cmの最下層から18世紀後半以降の陶磁器片が出土し、今の古道が江戸時代以降に整備された面であると判明しました。さらに2004年度(平成16年度)の調査で、現在は約90cmまで狭まっている第1切通の最狭部が、もとは約270cm以上の幅であり、度重なる地震による崖の崩落とかさ上げの修復を経て狭まったことが解明されています。

 

春と秋にだけ開く

この斜面は、かつて観光の場でもありました。戦後、民間の所有者がやぐら前の平場にアジサイやヒガンバナを植え、「お花畑」として親しまれた時期があります。2001年度(平成13年度)に市が公有化するまでのことです。1966年(昭和41年)4月11日に国史跡の指定を受け、その後の追加指定を経て、指定地は逗子市域と鎌倉市域を合わせて約11ヘクタールに広がりました。1996年(平成8年)6月に第1切通で崖の崩落が起きたことをきっかけに保存管理計画が改められ、逗子市域の公有化率は9割に達しています。文化財を守るため、まんだら堂やぐら群は春と秋の期間限定で公開されています。スダジイやタブノキの茂る尾根の下に、150を超える穴が段をなして並ぶ光景を、公開期間を確かめて訪ねてみてはいかがでしょうか。

(2026年9月執筆)

PHOTO:写真AC

同じ都道府県の記事

同じカテゴリーの記事

ファイナルアクセス会社サイトはこちら

残り日数で探す

記事ランキング※24時間以内

Final Access Books

注目コンテンツ これが最後です

都道府県から探す