豊島区立日出小学校 閉校
- 文化・教育施設
焼け跡から再出発した「日出」の学び舎
1923年(大正12年)、現在の豊島区南池袋にあたる高田町に、高田町立第四尋常小学校が開設されました。寺社の境内と住宅地が入り交じる雑司ヶ谷・高田界隈の子どもたちが通った学校で、のちに国民学校令の施行に伴って高田第四国民学校と名を改めます。戦争末期には子どもたちが地方へ疎開し、校舎は空襲で失われましたが、戦後間もない時期に旧校地で学校が再び開かれました。新しい校名には、この一帯の旧地名「雑司ヶ谷旭出」にちなむ「日出」の字が選ばれています。焼け跡からの再出発にあたり、地域が受け継いできた地名を掲げた学校は、ここから約半世紀にわたって南池袋の子どもたちを送り出していくことになります。
渋温泉へ渡った120人の子どもたち
1944年(昭和19年)8月、高田第四国民学校の児童120名余りが、引率の教員とともに長野県山ノ内町の渋温泉へ集団疎開しました。子どもたちは道中の善光寺で記念写真を撮影し、そこから受け入れ先の旅館へ分かれて生活を始めたと、受け入れ先の一つである旅館「金具屋」の当主は記録しています。渋温泉全体では1,000名を超える都市部の児童が受け入れられたと伝えられています。同館には、疎開を体験した元児童の多くが、つらい記憶として当時のことを語りたがらないという話も残されています。そして1945年(昭和20年)4月13日の城北大空襲で、子どもたちが通った雑司ヶ谷の木造校舎は全焼しました。豊島区立郷土資料館は、疎開児童の文集などを収集し、戦時下の子どもたちの体験を後世に伝える取り組みを行ってきました。
3校の統合と区役所の誕生
少子化が進む中、豊島区は小・中学校の適正化整備計画を進め、日出小学校は高田小学校・雑司ヶ谷小学校と統合されることになりました。2001年(平成13年)3月31日に閉校し、翌月には旧千登世橋中学校の跡地に統合校の南池袋小学校が開校しています。日出小学校が送り出した卒業生は3,680名にのぼります。統合に際しては、母校がなくなることを惜しむ声とともに、新しい学校の教育環境に期待する声も地域から寄せられたと伝えられています。跡地はその後、市街地再開発の対象となり、2015年(平成27年)、超高層の複合ビル「としまエコミューゼタウン」の下層部に豊島区役所の新庁舎が開庁しました。敷地の外周には「旧豊島区立日出小学校跡」の記念碑が建てられています。
日出の名を刻む碑
疎開先で親元を離れて暮らした子どもたち、空襲で校舎を失った後に同じ場所で学校を立て直した教職員と地域の人々、そして3,680名の卒業生が、この学び舎の歴史を形づくってきました。校舎はすでになく、跡地は区政の中心として多くの人が行き交う場所に変わりましたが、記念碑はその歩みを今に伝えています。区役所を訪れた際には、建物の外周に足を向けてみると、かつてこの地にあった小学校の記憶に触れることができます。「日出」の名を刻んだ碑は、今日も区役所の足元から、行き交う人々を見守りつづけています。
(2026年10月執筆)

懐かしい記憶が呼び起こされる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

長年に渡り、地域の子供達をお守り頂きありがとうございます。
PHOTO: 廃校5000 様







