友ヶ島砲台跡
- 文化・教育施設
紀淡海峡に築かれた、鉄壁の防衛線
明治時代、京阪神の心臓部を守るため、日本政府は和歌山と淡路島を隔てる紀淡海峡の両岸に「由良要塞」の建設を計画しました。海峡が最も狭まる海域に砲台18か所、堡塁9か所が密集配置され、当時の日本国内で最大密度の大砲がひしめく防衛線が構築されます。友ヶ島の中で最大の面積を誇る沖ノ島は、軍の管理下で「要塞の島」へと作り替えられ、第1砲台から第5砲台、虎島堡塁とこれらを結ぶ軍用道路、営舎、弾廠などが整備されました。日露戦争(1904〜1905年)では緊急配備が下令されましたが、要塞のすべての工事が完了したのは終戦翌年の明治39年(1906年)で、実戦で敵艦に向けて砲撃される機会は一度も訪れませんでした。極めて重要な防衛基地であった友ヶ島は、当時の最高機密とされた要塞の島でした。
明治の技術が刻んだ、砲台群の姿
明治22年(1889年)9月起工・明治23年(1890年)11月竣工の第1砲台には27cmカノン砲4門が、明治27年(1894年)着工・明治31年(1898年)竣工の第2砲台にも同種の砲が据えられました。島の南西側中央部、標高106mに築かれた第3砲台は28cm榴弾砲8門を擁する島内最強の主砲陣地で、第4砲台は12cmカノン砲と28cm榴弾砲が混在する多目的要塞でした。明治38年(1905年)に竣工した第5砲台は、それまでの赤煉瓦造りとは異なる灰色のコンクリート製の速射砲台です。各砲台は屋根のない「露天砲座」を基本とし、「イギリス積み」の煉瓦壁や半円アーチの地下砲側弾薬庫など、当時の最先端技術が随所に見られます。第3砲台南東の丘には、シュツケルト式の大型探照灯を備えた「友ヶ島電燈」も置かれていました。
戦争の記憶を伝える、発掘と遺構
令和6年(2024年)3月の現地公開イベントでは、第3砲台の砲座から28cm榴弾砲を据えた直径5.4mの据付境界(据え跡)が良好な状態で発掘され、130年前の戦争の緊張感を今に伝えました。昭和8年(1933年)には第2砲台の廃止が計画され、昭和10年(1935年)3月には第2・第4砲台がともに正式に除籍・廃止されています。昭和14年(1939年)から16年(1941年)にかけては沖ノ島に「友ヶ島防備衛所」が設置され、水中聴音機や磁気探知機で敵潜水艦を監視しました。平成15年(2003年)度には、これら友ヶ島砲台群が土木学会の選奨土木遺産に選定されています。
海を隔てた要塞と、今に続く歩み
友ヶ島の対岸、和歌山市加太・深山・大川一帯にも、由良要塞のもう一つの拠点として深山第1・第2砲台をはじめとする砲台群が築かれ、海を隔てて沖ノ島の砲台群と連携し、紀淡海峡を守る本土防衛の要となっていました。明治の起工から130年あまりが経った現在、友ヶ島には加太港から友ヶ島汽船でわずか20分の船旅で渡ることができ、この要塞の島は現代の日常の一部として静かに人々を迎えています。
(2026年8月執筆)

戦争の緊張感を現在に伝承する貴重な史跡です。
PHOTO:写真AC







