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旧海軍司令部壕

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沖縄の空に架けられた盾 ― 旧海軍司令部壕、建設の記録

1944年(昭和19年)3月22日、大本営は「大陸命第973号」により大本営直轄の第32軍(沖縄守備軍)を創設し、沖縄防衛体制を本格始動させました。同年3月25日、第32軍司令部が福岡県で編成され、4月2日に沖縄本島の那覇市安里・蚕種試験場へ配置されます。この防衛配置において、大田実海軍少将(のち中将)が率いる約1万名の海軍陸戦隊が、南部の要衝・小禄地区に展開しました。1944年末、陸軍第32軍との連携のもと、小禄飛行場の守備拠点として豊見城高台の地下に「海軍司令部地下壕」の掘削が始まります。この壕は地下約30メートルの深さに達し、幅・高さとも約2メートル、全長約275メートルにおよぶ手掘りの要塞として築かれました。


孤立無援の戦いと、司令官の最期

1945年(昭和20年)4月1日、米軍が沖縄本島西海岸に上陸し、上陸からわずか3日後には本島を南北に分断しました。5月27日、第32軍司令官・牛島満は首里から南部の摩文仁丘への撤退を決定し、司令部が南へ去った後の小禄・豊見城一帯は孤立無援の状況に追い込まれます。6月4日、米第六海兵師団が小禄飛行場奪取を狙って上陸すると、大田実中将は豊見城の壕での死守を断念し、西南方の赤嶺へ後退しました。6月6日、大田は海軍次官に宛て、沖縄県民の犠牲に触れた訣別の電報を発信しています。6月11日夜、大田は玉砕を覚悟する最期の連絡を発し、2日後の6月13日、豊見城の海軍壕内で大田実司令官をはじめとする多くの将兵が自決、小禄地区は米軍に制圧されました。


90日間の沖縄戦が遺したもの

首里の第32軍司令部は5月29日に米軍に制圧され、南部撤退にともなう混乱の中で多くの住民が犠牲となりました。牛島司令官と長勇参謀長は6月23日(22日説もあり)、摩文仁の坑道内で自決し、組織的な戦闘は終結しましたが、降伏を禁じられた残存兵による掃討戦はその後も続きました。約90日間に及んだ沖縄戦全体の戦没者は日米合わせて20万656人にのぼり、そのうち一般住民の犠牲者は約9万4000名にのぼるとされています。


観光開発の頓挫から、保存・公開への歩みへ

戦後、1968年度(昭和43年度)には沖縄観光開発事業団が首里の第32軍司令部壕を観光資源として再開発する調査を進めましたが、1969年(昭和44年)12月、崩落の危険性と財政リスクを理由に計画は断念されました。1995年度(平成7年度)の沖縄県の文書には、壕内の危険性への警告とともに、戦争遺跡としての保存活用を求める市民の陳情が記録されています。豊見城の旧海軍司令部壕は現在、戦跡として一般公開されており、沖縄戦の記憶を伝える場となっています。

(2026年8月執筆)

地下に張り巡らされた通路が何かを訴えかけてきます。

 

悲惨な歴史を今に伝える貴重な史跡です。

PHOTO:写真AC

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