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第三台場

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黒船から2か月で

1853年(嘉永6年)6月3日、ペリーが軍艦を率いて浦賀に来航しました。幕府は江戸湾の防備を急ぐ必要に迫られ、勘定吟味役格の江川太郎左衛門英龍氏らが湾内を巡視して、海上砲台の建設を提案します。伊豆韮山の代官を代々務める家に生まれ、西洋砲術を修めた人物で、老中阿部正弘氏のもとで築造位置の選定と大砲鋳造の総指揮を執りました。西洋の築城書と砲術書を参考に、南品川猟師町から深川洲崎にかけての海上へ11基の台場を連ね、湾を封じる計画が描かれます。工事が始まったのは同年8月末、来航から2か月余りのことでした。昼夜兼行の突貫工事を経て、翌年7月に第一、第二、第三台場が竣工します。同年12月には第五、第六台場と、陸続きの御殿山下台場も完成しました。ただ11基のうち完成したのは6基にとどまり、第四と第七は途中で打ち切られ、第八以降は着手されずに終わっています。

 

御殿山を削って、海を埋める

第一から第三台場の建設には、日々約5000人の人夫が動員されました。資材を運ぶ船は1日あたり約2000隻が行き交います。海に島を築くための土砂は、品川の御殿山や泉岳寺境内の高地を削って運ばれました。石垣の石材は、伊豆半島や相模の沿岸から海上輸送されています。初期の3基に投じられた費用は75万両にのぼりました。第三台場は一辺約160mの正方形で、外周を海面から高さ5mから7mの布積みの石垣が囲みます。石垣の上には厚い土塁が盛られ、中央は周囲より一段低い窪地とされました。海からの砲撃と視線を避けるための構造です。窪地には兵士が詰める陣屋が建てられ、弾薬庫が置かれ、北側には物資を運び込む石組みの船着場が設けられました。完成の翌年、1855年(安政2年)10月2日の夜に起きた安政江戸地震では、第一、第二、第三、第五台場の石垣などが損壊し、修復が行われたことが図面の記録に残っています。

 

一度も撃たれなかった砲台

完成した台場の警備は、親藩や譜代など将軍家に近い家格の大名が分担し、1868年(慶応4年)の幕府崩壊の直前まで続けられました。しかし日米和親条約の締結と開国への転換によって、台場が実戦で砲を放つことは一度もありませんでした。幕府が倒れると、1873年(明治6年)に管轄は海軍省へ移り、2年後には陸軍省へ移ります。1915年(大正4年)、防衛上の役目を終えた第三台場と第六台場は東京市へ払い下げられました。1924年(大正13年)に東京府知事が史跡の仮指定を行い、2年後の10月20日、両台場は「品川台場」として国史跡に指定されます。そして1928年(昭和3年)7月、第三台場は台場公園として市民に開放されました。

 

海に浮かんでいた島へ、歩いて渡る

品川沖に築かれた6基のうち、東京港の整備や臨海部の埋め立てで大部分が姿を消し、残ったのは第三台場と第六台場だけです。第六台場が立ち入りのできない海上の史跡として保全される一方、第三台場は周囲の埋め立てで臨海副都心と陸続きになり、誰でも歩いて入れる公園となりました。園内には陣屋の礎石、弾薬庫跡、船着場跡が残り、幕末の洋式砲台の姿を留めています。品川台場は続日本100名城の一つにも選ばれています。幕府作事方が残した設計平面図や断面図など31枚は、港区教育委員会が文化財として保管しています。黒松と芝生に囲まれた窪地から石垣の上へ登ると、レインボーブリッジと東京湾が目の前に広がります。かつて海に浮かんでいた砲台の島を、歩いて訪ねてみてはいかがでしょうか。

(2026年9月執筆)

砲台跡は当時の緊張感を今に伝えます。

 

国を守ろうとした先人達に想いを馳せたいものです。

PHOTO:写真AC

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