饂飩坂 消失
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東京・六本木の地に、江戸の昔から静かに時を刻んできた「饂飩坂」が、まもなく大規模な都市再開発によってその姿を消そうとしています。この坂の歴史は、史実によれば江戸時代後期の1788年頃までこの地で営まれていた「松屋伊兵衛」という人物のうどん屋に由来します 。大名屋敷が多かった麻布界隈にあって、庶民の暮らしの中から生まれたこの名は、二百年以上にわたり地域の人々に呼ばれ続けてきました。
江戸時代の古地図を紐解くと、隣接する「芋洗坂」としばしば混同されるなど、その存在は公式な記録よりも市井の人々の記憶と共にあったことがうかがえます 。明治、大正、昭和、そして平成の世に至るまで、六本木が軍用地から国際的な文化の発信地へと劇的に変貌する中でも、饂飩坂は変わることなく、街の移ろいを静かに見守る証人であり続けました。
2025年度より着工される「六本木五丁目西地区市街地再開発事業」は、この地に新たな都市景観を創出します 。計画では、この地域の複雑な高低差を解消することが目的の一つとされており、饂飩坂はその歴史的な役割を終えることになります 。その名が地図から消える日は近いですが、かつてここに一本の坂道があり、多くの人々の往来を支え、一杯のうどんの記憶を今に伝えていたという物語は、私たちの心の中に生き続けることでしょう。饂飩坂が紡いできた、ささやかで温かい歴史に心からの敬意を表します。
(2025年9月執筆)
見慣れた景色とのお別れが近づいております。
PHOTO:写真AC