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翁橋

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城下町の境界に架かる橋

平安時代の書物『五代集歌枕』に登場する「美作国翁川」が藺田川の下流を指していたという伝承が、「翁橋」という名の起源とされています。慶長8年(1603年)に美作国を領有した森忠政が、翌9年(1604年)に津山城下町の建設に着手した際、この藺田川は城下町中心部の「内町」と外側の「外町」を隔てる境界として定められました。城下町の西の玄関口という要衝であったため、東詰には「西の大番所」が置かれ、通行人は常に監視の目にさらされていました。橋のたもとに屋敷を構えた森家家臣・今村九蔵にちなみ、「九蔵橋」という別名でも親しまれていました。明治16年(1883年)の『津山誌』には、当時の橋が木製の勾欄付きであったことが記録されています。


大正ロマンが宿る、煉瓦の橋

大正14年(1925年)、新聞『中國民報』が煉瓦舗装による架け替え計画を報じ、翌大正15年(1926年)、設計者・中山伊平の手により、翁橋は鉄筋コンクリート造T型桁橋として生まれ変わりました。請負業者の鈴木春平と石工の鞍懸駒太郎の名は、今も橋の親柱に刻まれています。花崗岩の親柱にはアールデコ様式の彫刻が施され、欄干には当時としては先進的な鉄パイプが採用されました。路面には備前市伊部の工場で製造された舗道用煉瓦が115列、4268.5個も敷き詰められ、表面には滑り止めのワッフル状の凹凸が施されていました。しかし昭和10年(1935年)頃を境に煉瓦舗装は全国的に姿を消し、翁橋の煉瓦も昭和12年(1937年)にアスファルトの下へと隠されてしまいました。


眠りから覚めた、大正の記憶

平成31年(2019年)2月、橋の点検中の試掘調査で、80年以上眠っていた煉瓦舗装が姿を現しました。令和3年(2021年)にはアスファルトを全て剥がす発掘調査が行われ、煉瓦が当時の姿を留めたまま敷き詰められている光景が明らかになります。専門家の調査により、大正から昭和初期に煉瓦舗装された全国の橋の中で、橋全体に煉瓦が現存するのは翁橋ただ一つであることが判明しました。令和4年(2022年)9月に土木学会本部で承認され、11月に美作地域初となる選奨土木遺産として正式に認定されました。同年12月には認定書授与式が橋の上で開催されています。貴重な煉瓦を保護するため、表面には煉瓦模様を模したカラー舗装が施され、歩道部分の2箇所には強化ガラス製の窓が設けられ、今も足元に眠る本物の煉瓦を直接見ることができます。


町並みとともに、今も生きる橋

翁橋の西側には、明治42年(1909年)建設のルネッサンス様式建築「土居銀行津山支店(現・作州民芸館)」が今も残り、続く西今町には江戸から昭和にかけての町家が連なります。橋の東側にある徳守神社の秋季例大祭「津山まつり」では、鉦や太鼓の音とともに絢爛な「だんじり」が旧出雲街道を練り歩き、江戸時代から変わらぬ熱気を今に伝えています。城西地区が重要伝統的建造物群保存地区に指定された現在も、翁橋は白壁の町家や寺院群と一体となって、津山の歴史的景観を形づくる心臓部として愛され続けています。

(2026年7月執筆)

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